陶興房イメージ画像
 西国九州といえども、なお肌寒い冬・正月。
 梅の花がほころぶにはまだだいぶ間があったが、主従は二人して安楽寺に詣で、有名な「飛梅」を見物した。
 太宰府は古来、「悉く朝廷に同じ」とされ、長く九州における政治と文化の中心地であった。やがて、菅原道真の祠廟・安楽寺が建設されると、文化的役割は、こちらに移る。
 安楽寺は元々、菅原氏の氏寺に過ぎす、別当も代々その子孫から選ばれていた。だが、二代目別当・鎮延の代から、太政官符(太政官が出す公式命令書)をもって補任される官寺(国に監督を受ける代わりに経済的に保証してもらえる寺)的性格の寺院となった。以来、太宰府に赴任してくる官人たちの手厚い保護を受けている。
 平安貴族たちの雅な宴から始まって、神官・僧侶たちの宗教的行事、やがては、和歌や連歌まで、安楽寺には常にあらゆる文化がもたらされ、いつの時代も九州における文化の中心地であった。
 安楽寺が大内家の支配下に入ったのは、義興の祖父・教弘の代。この頃から和歌とならんで連歌会が、盛んに行われるようになる。そして、父・政弘の時代。応仁の乱で留守中に、少弐家に荒らされるようなこともあったが、帰国後は速やかに筑前・豊前の地を平定。周防・長門に加え、四ヶ国の守護職としてその地位は揺るぎないものとなった。
――東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな
 平安の世、太宰府に左遷される菅原道真が、庭の梅の木にこのような歌を詠み「きかせた」ところ、何とその梅の木は、主を追って、太宰府まで飛んできたのだとか。これがその梅の木である、と言われても、どこをどうみても、何の変哲もないただの梅の木であった。
 かつて、星が舞い降りてきた、と伝えられる鼎の松を見に行った時の、子供時代が思い起こされる。
「主を慕って共に都落ちとは。殊勝なことであるな」
 そんな風流な言葉を口にしながら、なぜか義興はにやにやしている。
「何か、可笑しなことでも?」
「いや、このような話を聞くたびに、アホらしい、あり得ない、と切って捨てる無粋な男を思い出したのだ」
――どこにでもある松の木ですよね?
 そう言って大樹を見上げていた鶴寿丸。幼い亀童丸が、祖先伝説の松を見上げ、これが我らの一族を守ってくれる聖なる木なのだと感激している脇で、平然とその感動の思いをぶち壊していった……。
 興房はそれが兄・武護の事だと思い至り、同じく笑いを噛み殺す。
「完璧な男だと思ったが、風流だけは解さなかったようであるな」
 だが、笑いながらも、武護の事を思うたび、何やらしんみりとする二人であった。今頃どこで何をしているのか? 想像もつかなかった。