大内義興イメージ画像
 さて、山口を出た義興はまず、長門の赤間関に至った。付き従う軍勢は六万余騎。「六万」という数字は『肥陽軍記』という書物の記述である。研究者の先生方は、軍記物は誇張されていて、信用ならぬことがあると嫌う。歴史小説が史料たり得ぬのと同じく、これまた「文学」なので当然か。まあ、そこが面白いところでもあるのだが。
 六万という数字には、誇張があるように感じられなくもない。だが、たいてい、支配下にある国人なども駆り出されるから、安芸、石見などからも馳せ参じ、相当な数になったことは想像に難くない(六万かどうかは責任が持てない。あしからず)。
 そして、忘れてはならないのは、北九州の一部も支配下になっているのだからして、当然そこからも加わる。少弐が侵攻してきたのが十一月、大内軍が出立したのが十二月なので、およそ一ヶ月のタイムラグがある。ゆえに、現地では、一足先に敵と交戦中だ。

 いよいよ、九州の地に足を踏み入れた義興。これまで、将軍親征に参軍するために上洛したことを除けば、その人生の殆どを周防の国で安穏と過ごしてきた彼にとって、野望渦巻く紛争地域への旅は生まれて初めてだ。先祖代々争いの絶えないこの地をまとめていくことは、当主に生まれた者の宿命であった。
 この、人生初の大舞台に僅かばかりの緊張を覚えつつも、彼はひるむことなく果敢に立ち向かおうとしていた。
 周辺諸国との争いは「心ならず」かもしれないが、売られた喧嘩は買わねばならぬ。理由もなく勝手に侵攻してきて、領国を荒し、民を苦しめた者を追い払うのは、国を治める者として当然の務めである。
「徹底的に攻めかかり、敵の手に落ちた城すべてを取り返す。『凶徒』の討伐ゆえ、攻撃の手を緩めることは許されない。しかしながら、少弐の横暴に屈し、やむなく降伏した城主も少なからずいるはず。よって、我らの支配下に戻ることを希望するなら咎めなしとする」
 陣所を埋め尽くす数万の将兵らを前にして、義興はその胸の内に沸き上がる言葉を素直に発した。後半は、言われなく命を奪われた宗像大宮司や、留守氏のことを思い浮かべつつ付け加えた。張り詰めた空気の中、大将から一兵士まで、皆が納得し、己が号令に従う覚悟であることが、彼ら一人一人の真摯な眼差しから伝わって来る。その先頭に立つ興房と目が合うと、力強く頷いている。実は夕べ遅くまで、密かにこのスピーチの予行演習に付き合ってくれたのだ。
 一団の中には、興房の親戚筋・周防の仁保護郷、石見の益田宗兼の姿も見える。護郷も宗兼も、共に、武護の父・弘護と縁浅からぬ者である。その誼から、皆、義興には好意的だし、また、興房とも親しかった。ことに、宗兼は石見の国人たちを引き連れてきてくれた。
 元々、守護からの独立性が強く、将軍直属のような性格を持っていた各地の国人衆には、幕府の求心力が低下するにつれ、守護たちの被官として取り込まれてしまった者もいた。あるいは、守護勢力にも将軍権力にも属さず、更に独立色を強めていった者も。石見や安芸は、もともと、そうした独立趣向が強い地域であり、それゆえに、彼の地の守護職は特定の家によって世襲されていない。その時々で、将軍の覚えめでたい者、実力のある者が任命されるのが常であった。大内家の先祖には石見や安芸の守護に任じられた者もいたが、現在は違う。