大内義興イメージ画像
 先の、大友政親の一件以来、義興は完全に意気消沈してしまっていた。政親が実子である親豊を手にかけたこと、命を奪われた親豊が義興の従兄であったこと、さらには、友好的であったはずの大友家が敵側となってしまったこと、どれを取っても気分の良いことではない。
 だが、従兄の謀殺とその下手人が実の父親であったという非情な現実が、彼の胸に重くのしかかってしまっていると知る興房は、何とか主の心を戦場に向けさせようと心を砕いていた。館の中では、相変わらず戦の準備は万端整っていたにも関わらず、義興はその一歩が踏み出せなくなってしまっている。
 大友家は、大内家との「断絶」を明らかにしたものの、親豊、政親の両当主の相継ぐ死で、直ぐには大挙して攻め込んでくる余裕がなかった。後を継いだ政親の弟・親治は、まずは、兄と甥とで二つに割れていた家中の取り纏めをしないことには始まらなかったからである。
 明応五年七月、親治は「御所の辻合戦」で、市河親清ら義右(親豊が改名していた)派の勢力を一掃し、漸く心置きなく大内攻めの準備に取りかかれることになった。この「辻合戦」では、双方あわせて500人もの戦死者が出たと言われる。同じお家の中で、家臣同士が殺し合う、まさに、義興からしたら、信じられない光景であろう。

 早いもので、季節は夏から秋を通り越し、既に冬景色となっていた。寒空に澄んだ月を眺めやりながら、義興は亡き父・政弘の歌を思い出していた。
――わかきめつ心にもあらで十とせあまり ありし都は夢かうつつか
 武護言うところの「無益な戦」に十余年も駆り出されていた時のことを詠んだ歌である。義興も京での従軍を経験し、細川政元の横暴で、何の罪もない将軍・義材が将軍職を追われたり、その家臣・畠山政長が命を落としたりしたことを思い出す。それらの現場を直接、目にしたわけではないが、同じ時にまさに事件の舞台となった京にいたのである。あれらは一体、何だったのか。その答えは今もって分らない。
 京の大乱から戻った父・政弘は、留守中に荒らされた九州の分国を鎮めるのに五年の歳月を必要とした。今、まさに、北九州の地はまたしても風雲急を告げている。何の経験もない己に、上手く収めることができるのであろうか。
敵もまた、父のような文武に秀でた名将ではない、まだ何も分らない小僧一人だと思って牙を向いてきているのだ。ここが腕の見せ所と張り切るべき所なのに、なぜにこのように気が進まないのだろうか。
「戦など無益だ」
 興房を前にして、義興はぽつりと胸の内を明かした。
「だが、強くあるためには、時には冷酷非情になることも必要だ。それが大国の主として国を治める者の定めである、と父上が」
 政弘の最後の言葉を聞いてから、まだほんの数ヶ月しか過ぎていないというのに、もうこの有様である。「冷酷非情になる」にも時間と心の準備が必要ではないだろうか。
「父上は、ご自分でもあれが『無益な戦』であると悟っておられたのだな」
「『心ならぬさまにて都にありし事』と詞書にあります」
背後に控える興房が答えた。当然ながら、元主・政弘の歌は全て諳んじている。
「ですが、我らの此度の戦は『無益』なものではありませぬ。亡き大殿のお言葉通り、我らは皆のために戦わねばならぬのです。領国を安定させることは、すなわちそこに住まうすべての民のためでもあります。ご決断くださいませ。支度はとうに整っております」
「そうか……」
 なおも心ここにあらずの義興に向かい、興房が淡々と言った。
「少弐政資は周辺諸国に侵攻し、罪もない領主達を苦しめています。皆、御館様のご出馬を希っておりまする。先ずは、青山城主・留守殿のお話しをお聞きください」