大内義興イメージ画像
 九州での戦は予想していたよりずっと早くに始まってしまった。
 火種を撒き散らしたのは、またしても、足利義材であった。明応五年四月、義材は、義興と豊後の大友親豊、そして薩摩の島津忠昌の三名に対し将軍職復帰のために力を貸すよう、要請文を送りつけた。
 そこには、帰国予定の遣明船三艘のうち、それぞれ一艘ずつを与えるゆえ、それを兵糧料とするように、とご丁寧な交換条件まで付けられていた。
「どういうことだ? ここまであからさまに動いているというのに、まだ放置するつもりか?」
 このとんでもない文書が、遠く西国の大名達の手に届けられていたことを知らされた将軍・義髙は声を荒らげた。例え、傀儡であれ、なんであれ、天皇から宣下を受け、「正式に」将軍職に就いているのは彼である。死に損ないの先代がインチキな偽幕府を越中の片田舎に開こうが、何をほざこうが気にするな、と気にも留めない「後見役」の細川政元であったが、義髙には「気になった」。
 要するに目障りなのである。本来ならば、後腐れのないように、命まで取っておけば良かったものを、生かさず殺さず放置した挙げ句、逃げられてしまい、しかも、「ホンモノは自分である」などと喚いている。今回はあからさまに、大内、大友、島津というそこそこの勢力に向けて檄文を飛ばしている。そもそも、それが、彼らの手に無事に届いているところからして、もう腹が立つではないか。
 加えて、義材を援護していると見られる畠山尚順も、未だに紀伊国に逃れて義髙派の畠山義豊を苦しめていた。政元の話だと、「気にすることはない」というが、そんな「気にすることもない」弱々しい連中を、なぜいつまでものさばらせておくのか?
「越中と紀伊の『ニセモノ』も、それから、大内だの大友だのも、皆、まとめて片付けよ。目障りだ。余は、何のためにそなたにすべてを任せておるのだ? 何もしないで遊んでいても、すべて上手く片付けてくれるはずではないのか?」
 義髙も十六歳。そろそろ、あれこれ言い出す「お年頃」である。
(面倒なことよの……)
 政元は溜息をついた。確かに、義材の動きは政元にとっても「目障り」であった。大人しく越中で食うにも困っているのならまだしも、なおもしつこく檄文を飛ばす行為をやめようとしない。しかも、今回は大内だけでなく、大友や島津にまで声をかけ、あろうことか、大友親豊に至っては、ご丁寧に「義材様に忠誠を尽くす」ことを表明しているとか。
(邪魔なのは大内よ。大友や島津などには何も出来ぬわ。だが、大内が動けば厄介だ……)
 折角、先代の政弘がくたばってくれたところなので、ここは少し、経験の浅い若い跡継ぎに、嫌がらせを仕掛けるのも良いだろう。 「まあ、その辺でいつものように、蹴鞠だ連歌だとお楽しみください。何もかも、この政元にお任せあれ」
 そう言って、烏帽子も被らぬ丸出しの頭で、丁重な退出の挨拶もなく出て行く政元。その後ろ姿目がけて、義髙は手にしていた鞠を思い切り投げつけた。しかし、それは、目障りな「後見人」にはあたらず、空しくその少し手前に転がっただけあった。
(今に見ておれ……。将軍は余であって、そなたではない。なにが『半将軍』だ。たかが、管領ではないか)

 こうして、京にて遂に「大悪人」が活動を開始した。だが、その魔の手は、ターゲットの義興に直接、届くことはなく、先ずは、従兄の大友親豊の元へ向かったのであった……。