内藤篠イメージ画像
 義興の妻・篠は、謀反の疑いで先代・政弘に誅殺された内藤弘矩の娘。館の東側に住まいがあったことから、東向殿と呼ばれる。
 父・弘矩を舅である政弘に殺され、また、弟の弘和も夫の義興によって討伐されてしまうという悲劇に遭った。その後、内藤家そのものは叔父・弘春が当主となって存続が認められたが、もはや、篠にとっては、帰るべき家はないも同然であった。
 当然のことながら、夫・義興との関係もぎこちないものとなり、館内の女房達にまであれこれ陰口をたたかれる始末。それでも、妻として夫を支え、世継ぎたる「若子」を産みたいという気持ちだけは変わらなかった。それは、義興も同じであったようで、遠のいていた足も次第に戻り、夫婦は見かけ上は元の鞘に収まったかに見えた。
 そして、侍女の花と共に、毎朝毎晩、子授けの神に祈り続けた結果、ようやく、「懐妊の兆候がある」との診断がくだされた。
「なんともおめでたいこと」
 様々な事件の果て、義興同様、篠との関係に隔たりが生じていた、姑の今小路も嫁の懐妊を聞いて、望外の喜びであった。何しろ、篠は元々義興よりも年上。しかも当時としては晩婚であったから、子宝に恵まれるかどうか危ぶまれていた。
 真面目な義興が側室を迎えることを嫌がるのを知っていたから、何とか強引に器量も家柄も良い若い娘を探し出して、その気にさせなければ、などと考えていた矢先のことである。嫁いで数年。もはや、諦めかけていた嫁がやっと懐妊したのだ。
「ああ、これで、わたくしも思い残すことはありません。この腕に若子を抱くことができたのならば、明日にでも亡きお殿様の元に参ります」  父の死後、すっかり元気をなくし、一気に老け込んでしまった母を見るたび、心痛めていた義興も、久々に見る今小路の笑顔にほっと安堵したのである。

 しかし、肝心の篠は、やはり憂い顔であった。
「どうしたのです、お嬢様? 私達、どれほどこの日が来るのを待っていたことか。なぜ、このように塞ぎ込んでおられるのですか。また、亡くなられたお殿様や若殿様を思い出しておられるのですね」
 篠はそれには答えず、黙って部屋の戸を開ける。季節は春から初夏へと移ろうとしていた。目に入る青葉が眩しい。何もかもがみずみずしく輝いているこんな時節に、己の胎内には大切な御子が宿っている。本来ならば、こんなに嬉しいことはない。
 しかし、篠が素直にそれを喜べないのには理由があった。 (生まれてくるのが『若子』かどうかなんて、誰にもわからない……)
 そもそも、懐妊したからと言って、無事に子を産み落とすことができるか、また、生まれてきた子が、丈夫に育つかどうかすら分らないのだ。それなのに、皆、既に生まれてくるのは間違いなく「世継ぎたる若子である」と決めてかかっている。これでもし、死産になったり、無事に生まれてきても姫であったりしたら、どうなるのか。そう思うと恐ろしいのである。
「そろそろまた、蛍の季節がくるのね」
 胸の内の悩ましい思いとは裏腹に、篠の口からはそんな風流な言葉が出た。
「そうですね。私達、蛍火の下で出逢ったのですよ、『御館様』と」
 そう言って、花が悪戯っぽく笑う。まるで少女のときと変わらない笑顔で。
(でも、本当は、何もかも変わってしまった……もしも、あの夜にもう一度戻れたなら……)
 何やら懐かしい、胸をときめかせるような端麗な容姿が、ちらと目の前を過ぎていったような気がした。
(……)
 父を亡くし、弟を失い、もはや、悲しみや恨みの感情というものが消えてしまったかのようである。かつて、その輝かしい英姿で、まだ恋というものを知らなかった乙女心を虜にしたあの人を、己を欺し、父を陥れた陶武護を、篠はまた思い出していた。
「蛍火……」
 篠はぼんやりと、花の言葉を繰り返した。その二文字と深く結びついているのは、夫の義興ではなく、謀反人・陶武護であった。