大内政弘イメージ画像
 明応四年九月十八日。
 大内政弘は病のため、帰らぬ人となった。応仁の乱において西軍の勇将として名を馳せた彼は、輝かしく青史にその名を残したが、一方で、私家集『拾塵和歌集』を編纂するなど、著名な歌人としての一面もあった。先の大乱で京を逃れた文化人たちは、続々と彼が治める山口の地を目指し、その庇護の下、一大文化サロンが形成された。まさに文武両道に秀でた名将として、広くその名を知られていたのである。
 周防・長門と九州の一部にまで及ぶ広大な領国をその支配下に置く大国の主として、京のあれこれにも大きな影響を与え続けた人物の死は、西国は元より、その後の京の動静にも大きな影響を与える事となる。
 義興にとっての政弘は、陶弘護や内藤弘矩の殺害等々、あれこれの許しがたい罪を犯していたことを告白され、もはや、以前のような孝行息子として接することが難しくなってしまっていた。だが、そうは言っても、やはりその愛情は、鶴が亡き父・弘護に対して抱いていたのと同じく本来は、全てを包み込んでくれる頼もしくて偉大な父親であった。
 政弘の死は、義興は勿論、今小路を筆頭とする妻女たち、そして、尊光を含むすべての息子や娘たちを悲しませたし、彼の忠義の臣下たちも心からその死を悼んだ。
 既に、だいぶ前から病重く、横たわっているだけの政弘であったが、その存在そのものの大きさがこの国を支えていたのである。一家の大黒柱を失い、若い当主と後家たちだけが残された国の行く末に、皆は一抹の不安を感じた。
(何もかも己が不甲斐ないがゆえ……)
 そう思うと義興は辛い。

 政弘が危篤になった夜、部屋にはほぼすべての親族と、主だった重臣が集まっていた。皆、力なく項垂れ、涙にくれるだけであったのだが、そんな中、政弘は義興だけを残し、すべての者を一旦部屋の外へと退出させた。
「父上……」
 義興はもう部屋に入ったときから、泣きの涙であったのだが、これが父の文字通り「最後の言葉」になるのであろうと思うと、もう我慢ができずに、子供のように声をあげて泣いていた。
「馬鹿者。泣く奴があるか。そろいもそろって、馬鹿者だらけだ」
 そんな風に、常のような厳しい言葉を口にしながらも、政弘はいつになく穏やかで、慈愛に満ちた表情になっていた。それすらも、何やら悲しく、義興は泣きながら、差し出された父の手をしっかりと握りしめるだけで、言葉も出せなかった。
 政弘はその手を強く握り返した。それだけで、暫し、「仲違い」していた父と子は、すべてを水に流し、何も知らなかった頃のおとなしい孝行息子とそれを溺愛する親馬鹿な父親とに戻っていた。
「泣いているのは、お前が優しいからだ……こんな父でも、死んでいくのは悲しいと思ってくれておる」
「父上……」
 優しくなんてない。義興はそう反論したかった。心のどこかで、舅の内藤弘矩なんぞより、ずっと「煙たい」と思っていたのは、他ならぬ父であったのかもしれない。叔父・弘護の死に関しても、父の行為を許すことはできなかった。理解しようとすらしなかった。だが、今ならば……そんな気がした。
 だが、父のつぎの言葉は、義興を更に困惑させた。
「すまなかった……そなたを、そなたの友を、苦しめてしまったな」
 これは、「謝罪」だったのであろうか? 義興にはその後もずっと、この時の父の言葉の真意をはかりかねた。あるいは、聞き間違いであったのかもしれない。
「そなたのことだ。恐らく、弘護の息子をどこかに匿っておるのであろう?」
「……」
 義興は父よりも、自分がショックで先に逝くのではないかとおもったほどの驚きようだった。いや、もう今の父上にはそんなお力はないと。鶴が言っていたではないか。ここで、ボロを出してはだめだ。そう己に言い聞かせつつも、もはや、隠しようがなかった。