畠山尚順イメージ画像
 陶・内藤両家による謀反。それに対しての義興による陶武護、内藤弘和の討伐。更に隠居・政弘による内藤弘矩の成敗等々、明応四年は大内家にとって散々な年となった。
 周防・長門での大騒ぎがようやく収まった頃、越中にいたあのお方は……。
 そう、すったもんだの末、越中の地に逃れ、「新たな」幕府を開いた将軍・義材様である。

「何、大内家から便りが届いた、だと?」
 将軍職復帰のため、力を貸せ、と四方八方に便りを出した義材であったが、返事が来たのはごく僅かであった。しかも、その「僅か」が遠く九州の、小大名であったりすると、もう、何のために、どう力を貸してくれるのかも分からない。畿内周辺の名のあるお家からは、当然何の回答もなかった。無論、最初から除外して、書状そのものを書き送っていない相手すらいる。
 京ではとうとう、足利義高が正式に将軍となり、もはや義材の将軍職は「失効」してしまっていた。が、それでも、こちらも「正統」を名乗って譲る気はない。しかし、だからといって、こんな越中の片田舎で、神保家の面々と会話しているだけでは、何の進歩もないのである。名ばかりの「幕臣」たちは、「御所」に姿を見せる事すらないので、やることは全くない。
 先ずは兵力。そして地盤――。だが、その兵力そのものがない。となると、当然、戦も出来ぬのだから、地盤も広がらない。義材は文字通りの八方ふさがりであった。時折、紀伊の畠山尚順から使いがやって来る。来るたびに彼の領国は「微」増していたが、紀伊から越中までつながるのは一体いつのことなのか? 当然、ここへくる途中に京を通るのであるから、細川政元と「ニセ」将軍を倒さなければ、ここまでは来られない。
 ようやく、大内家の二万の軍勢(例の先の将軍親征時の人員の数。ざっくりした数値だが、義材はまだ、はっきりと覚えていた)が加われば、鬼に金棒……。いや、しかし、周防からここまで来る途中は? あの大内政弘は、西軍の将として上洛した際、通り道にいた国人・守護たちを或いは蹴倒し、あるいは味方につけて、向かう所敵なしで颯爽と現れたと言うが……。此度も同様に、西国からすべての連中を味方に引き入れて上洛し、すぐにも紀伊の尚順と合流すれば、もはや細川家などひとたまりもないではないか。
 なにやらにやにやと、独り笑いが止まらない義材であったが、そこへ、神保長誠の、もはや見飽きた顔と聞き飽きた声が。
「残念ながら、当家では昨年の興隆寺焼失から始まり、陶武護、内藤弘矩ら重臣たちの造反が相次ぎ、加えて、九州では少弐、菊池らが手を組んでまたもや、我らが領国を掻き回そうとの動きが。我らは国の内外に問題を抱えております。とてもではありませぬが、ご要望には添いかねると」