僧侶・宗景イメージ画像
 陶家の山口屋敷の一室で、陶興房は一人書物を読んでいた。三人兄弟の末っ子。家督は上二人の兄の間で移動したが、彼には何ら関係のないことだった。興明同様、主の義興から興の字を頂戴したが、出仕の機会はまだない。年齢的には兄の興明と同い年。ただ、母親が違っていた。
 手にした書物は『拾塵和歌集』。主の政弘の歌集である。この興房は家中でも一二を争う剛の者だったのだが、一方で和歌など嗜む風流人でもあった。武人としての兄・武護と、文弱な兄・興明とを足し合わせたような人物。まさに、文武に秀でた逸材といえる。更には、父から義理堅く情にあついところを受け継いでおり、また思慮深く謙虚なところは、やや傲慢で自信過剰な嫌いがある武護とも、家督への異常な執着を持つ興明とも似ていなかった。
 何やら、こんな風に書くと、それこそ完璧なる善人に思えるが……まさに、その通りであった。
 心優しい興房は、出家したという兄・武護のことを常に案じていた。この寒空の下、今頃兄はどこで何をしているのだろう。寺での修業は辛くはなかろうか。あれこれ考えると気がかりでならない。書物を開きながらも、その頁はずっと同じ個所で止まっており、興房はなぜか武護のことばかりを考えていた。
 そんな時、なにやら、人の気配を感じた。闇に紛れて何者かが侵入し、屋敷内に潜んでいるような気がする。どうも、山口の町は治安が良すぎて、人々は戸締りなどに気を遣わない傾向がある。それは、重臣らの屋敷についても同じであって、特に厳重に警備を固めるでもなかった。とは言え、大胆にも陶家の屋敷に押し入ってくる盗人などいるはずはなかろうが。
 興房は刀を手に、障子を開けたのだが、そこにいたのは、盗人か間者の類か判別もつかない、あまりそれらしくない「出家」だった。
「誰だお前?」
 興房は相手が出家だったからと言って、警戒を解いたわけではなかったが(そもそも、出家にしては身なりもでたらめだし、だいたい他人の家に『勝手に押し入ってくる』出家などいるものか)、なぜだか、どこかで会ったことがあるような、懐かしい気持ちがしたのだった。

「……もしや、兄上では?」
 気が付くと、興房は刀を放り出して、その出家に駆け寄っていた。
「よく分かったな」
 武護はそう言って、にっと笑った。この弟も、義興同様、「感動」の涙とやらにくれているのを見て、武護は面倒に感じた。
「悪いが、ここで油を売っている暇はないのだ。追われている」
「『追われている』、ですと? でしたら、早くお隠れに。こうしてお戻りになられたのですから、何も心配は要りませぬ。我が家に押し入ってくるような大胆な者などおらぬでしょう」
「それがいるのだ。大胆どころか、相手のほうが身分が上なのだから当然であろう?」
「え? それはまさか……」
 陶家より身分が上といえば、もう主の家しかないではないか。興房は訳が分からず目を白黒させている。
「そのまさかだ。すぐにもここを離れないと、首が飛ぶ。馬を貸してくれぬか」
「そんなこと造作もないですが……しかし、なぜ御館様に追われておられるのですか?」
「俺が謀叛したからだ」
 武護は平然と言った。
「え!?」
 さすがの興房も、あまりに酷い冗談に眉を顰める。
「そう思われてしまった以上、もうどうしようもない。とにかく、今すぐ若山へ行く。それから、これを興明に渡してくれ。本当は顔を見て行きたかったが……もうその余裕がないのだ」
「……」

 興房には訳が分からなかったが、武護から興明宛の書状を受け取ると、馬を用意して、裏口から逃してやった。
(兄上が謀叛など……あり得ぬわ。だが、逃げたりしたら、いっそう疑われるのではないかな)
 興房はそう思ったが、先ずは、預かった書状を興明に届けることにした。取り敢えず、当主は興明であるし、叔父の弘詮とて相談に乗ってくれることだろう。