細川政元イメージ画像
 かつて、嘉吉の乱で将軍・義教が暗殺された際、跡継ぎとなる子が幼かったために、将軍権力の空白期間とも言うべき時期があった。子供が政治を執ることは出来ないので、重臣達がそれを補佐することになったのだ。
 将軍不在の空白期間を作ってしまったことと、それにより重臣達の権力が強まってしまったことは、赤松家の責任である。そして、その後将軍が成人しても、もう管領だの重臣だのはまともに将軍のいうことを聞かない、もしくは、自らの主張をゴリ押しするようになってしまった。そんな時に、やる気のない義政のような人物が将軍となった(それ以前に『年少』で就任したのもまた彼だが)ことは、まったくもって悲劇である。というより、このような、思うに任せぬ状況下では、ある意味、やる気をなくすのも当然という見方もできるのであって、それはそれで、気の毒なことではあった。
 さて、子供はそのうち大人になる。成長した義教の子・義政がこれからは「親政」を開始し、将軍権力の復活を、と望むのは当然であった。しかし、既に長期に渡って旨味を吸って来た重臣たちが言う事を聞かない。そこで、助けを求めたのが自らの側近・伊勢貞親や御台所・日野富子の実家・日野家などであった。だが、これらの者たちの重用はまた新たな問題を引き起こす。特に富子の兄・勝光は「押大臣」などと言われて、とてつもない権勢を誇った。
 その一方で、既に幕政を意のままにしていた重臣たちの間にもあれこれの権力闘争があった。そもそも、応仁の乱そのものが、細川勝元による畠山家の追い落としであったという学者もいる。少なくとも、たんなる相続時の揉め事にすぎなかったこの一件を簡単にまとめることができず、お家の分裂を招いたことで細川家のライバルであった畠山家は完全に没落した。
 さて、幕府権力内部の抗争に敗れて分裂の憂き目にあった畠山家であったが、なおも痛々しく「お家の統一」を求めて争い続けていた。応仁の乱は言ってみれば、各地の守護達、国人衆はじめ在地勢力たちの確執とそれまでの怨念の爆発であったが、それを境に地域勢力の力が強まったという点では画期的な出来事であった。

 それから二十年近くを経た今、またも将軍権力は「空白」となっていた。義政の子・義尚は早死にし、後を継いだ従弟の義材は細川政元のクーデターで追い払われ、今は義尚のもう一人の従弟・義髙が「将軍」とされていたが、まだ未成年である。
 将軍が正式に親政を開始するには、天皇から宣下を受けねばならないが、そのためには、まず成人しなくてはならない。彼にはまだその資格がないのだ。
 とは言え、義髙は幼児ではない。十四歳の少年である。それに、今年中に十五歳となるから、成人目前であった。かつて美濃の片田舎から出てきて将軍に担ぎ上げられた前任の義材のような青年ではないにしろ、とっくに物心ついている。なので、おぼろげながら、自らの運命について理解していた。
 義髙は堀越公方・政知の息子である。伊豆の片田舎の生まれで、次男であった。ゆえに家を継ぐことは叶わない。そうでなくてさえ、嫡男以外なんでも僧にする足利家であった。義髙は、父の異母弟である、当時の将軍・義政の命により天龍寺香厳院の院主と定められた。義髙六歳の時のことである。この寺は、かつて父政知が関東に下向する前に院主を勤めていたところだったから、縁もゆかりもない所ではなかった。