大内義興イメージ画像
 紀伊国で武護に新しい出逢いがあった頃、周防国では義興と篠が仲睦まじい夫婦生活を送っていた。
 その日、若い二人は連れ立って母(姑)今小路の元を訪れていた。
「興隆寺の再建のほうはどうなっていますか?」
 先ずは当たり障りない話題から。
「秋までには終わるかと思います」
「そう。それは良かった」
 当主と一族、家臣ら以外にも、国のシンボルとも言うべき寺院の再建を大問題と思ってくれた領民たちの協力もあって、工事は順調に進んでいた。これが戦時ででもあったら、それどころではなかったろうが、「大悪人」のお陰で京が落ち着いていたのは、幸いであった。
 だが、他にもあれこれと京のことや、領国内のことを話す義興の話はほとんど今小路の耳には入っていなかった。母として姑として、一番聞きたいのは嫁である篠の懐妊の知らせだけであったからだ。
 嫁いできて半年を過ぎた。早ければそろそろ何かの兆しがあっても良いのだが。残念なことに、未だに何の話もないのである。
 一日も早く子宝が授かるように、神仏に祈り続ける今小路であった。神仏と思い至った時、今小路は自らも思いがけない言葉を口にしていた。
「この館は呪われているという噂、知っていますか?」
 義興と篠は顔を見合わせる。
「母上、何を仰るのです? そんな噂、聞いたこともありませぬよ。我らの館がなぜそのような……」
 そこまで言って義興はふいに口を噤んだ。祟りとか呪いとか言う類の噂が出るのには、当然それ相応の理由がある。何のやましいこともないところにそのような噂をでっちあげようとしても無理というもの。逆に、当時の人々は、不慮の死を遂げたりした者の霊魂は怨霊として祟るものだと信じていた。なので、そのような「死人」が出たところにはその手の噂はつきものであった。
 そして、この館には、そのような死を遂げた者がいる。ほかならぬ武護の父・弘護だ。当然そのような噂はあったに違いない。だが、今はそんな話をする者は皆無であった。もうあれからどれだけの年月が過ぎたというのだ。口さがない連中も今やすっかり忘れているだろう。
 だが、武護にしろ、義興にしろ、弘護を慕っていた者たちからしたら、たとえどれだけの時間が過ぎようとも、そのことによって忘れることなど出来やしないのである。義興は暇に飽かせて、かつての事件について書かれた文書の類をすべてあらためて見てみた。だが、調べてみるも何も、あれほどの大事件について、ほとんどなんの記述も見当たらなかったのだ。
「吉見が陶を刺殺し、その咎により吉見は内藤によってその場で成敗された」これのみである。確かに、関係者が、内藤以外すべて死亡している状態では調べるも何もない。その内藤も、当事者ではなく、ただその場に居合わせて、刃物を振り回す不届き者を捕らえることが出来ず、当主の身の安全を第一に考えて殺すしかなかったのであろう。
 そうなると、もうこの事件は「当事者死亡」で完全に闇の中である。しかし、形ばかりでも、何かを調べようとした形跡、または、その場の有様について事細かに記している記録が残っているかもしれない、と期待したのである。だが、それさえもなかった。
 まったくもって、事件は「封印」されているがごとくであった。とは言え、殿中での刃傷沙汰で二人も死者が出たとなれば、それを気味悪がる者が大勢いたはずだ。しかし、幼い頃の記憶を辿ってもそんな話を聞いたことはなかった。恐らく、若子様を怖がらせないように、と皆が口を噤んでいたこともあろうが。
(まあ、叔父上が怨霊なんぞになって我らに祟りするはずがないが……)  しかし、同時に命を落とした吉見に関してはその保証はない。