細川政元イメージ画像
 明応三年、京では、周防の人々に「大悪人」と忌み嫌われる細川政元が我が世の春をうたっていた。足利義材は越中に亡命政権を起ち上げたものの、それ以上のことをする力はなく、仇敵・大内家では氏寺と敬う興隆寺が焼失し、皆が意気消沈する状態で、これまた政元からしたら、ざまあみろという気分。
 傀儡将軍・足利義高(義遐が改名した)は十四歳。判始めの歳には達していなかったので、後見人である政元や日野富子、伊勢貞宗といった連中が幕政を牛耳っていた。中でも政元の勢力は強大であった。
 在京、在国の話はしたと思うのだが、応仁の乱を境に、守護達は皆、分国へ帰ってしまい、自らの国力を安定させるのに必死であった。ところが、細川家は元々、守護としての分国が畿内なので、在京していようが、分国に帰ろうがさしたる違いはないのである。
 細川家の領国は摂津・丹波・土佐であり、また和泉・備中・讃岐・阿波はその分家・庶流の一門が治めていた。摂津・丹波・和泉が京から近いのは勿論、土佐・讃岐・阿波は四国でまとまっている。このような配置はたいへんに有難い。没落した斯波家のように、領国が京から遠い上、バラバラに配置されていると、勢力の維持は困難となるからである。
 先ずはこうした、地理的な優位性があり、更に将軍家一門としての名門という血統、加えて代々の当主がどれも狡賢い、よく言えば聡明だったお陰で、専制のお膳立てが整っていた。どれか一つが欠けても上手くはいかなかったであろう。
 大内家は分国が地理的にまとまっていることは強みであり、また代々の当主も優秀であったから、大国足り得たが、決して「名門」ではない。そもそも、将軍家の一門ではないし、京の連中(一般庶民も含め)からは、「外国人」扱いをされていた。まあ、本人たちが先祖は百済の王族であると名乗っていたくらいなので、その辺は気にしていなかったのであろう。だが、世間一般的には「成り上がり者」は、源氏・平氏・藤原氏などにルーツを求める(例えインチキでも)のに比べ、それを外国の王族なんぞに設定した例は希有であり、人々の目には変わり者の一族だと奇異に映ったことだろう。
 しかして、当然のことながら、最大の弱みは「京から遠い」という点である。それゆえに、畿内の面倒な争いに直接巻き込まれることはなかったにせよ、幕府という組織の中では遠隔地の田舎者に終始するという定めなのであった。
 まあ、有り難いことに幕府は「遠隔地」については融和・放任というスタンスだったから、たとえ、面倒だから在京しないですませてしまおうが、そのせいで罰せられることもなかったから、ある程度やりたい放題にできるという旨味はありそうだが。
 さて、この時点では、日野富子はまだ健在であったものの、二年後には死んでいるから、そうなると、もう幕府は細川政元一人の手で回っているようなものであった。だから、人々は政元のことを「半将軍」と呼んだ。
 しかし、この「大悪人」にも最大の欠点があった。いや、元々欠点だらけの奇人変人だが(あくまでも大内政弘目線)、我が世の春をうたうなら、当然、義興と篠が頑張っているように「子作り」に励み、この大切なお家を子々孫々繁栄させるために尽くすべきである。だが、政元はこれを一切やらなかった。
 怪しげな修行に凝り固まり、その教えに基づき傍らに一切女人を置かなかったのだから、「子作り」などできるはずがないのだ。子供がなければ養子を迎える。たいていの家では懸命に「子作り」した結果、それでも子宝に恵まない場合は、仕方なくこの最終手段に出る。それでも畠山家のように、忘れた頃にひょっこり実子が生まれて大混乱になるくらいである。それを、この男は最初の「努力」すら、まったくやっていない。
 そして、当然の如く「養子」を迎えた。それが、公家・九条政基の子で、政元自らの幼名と同じ聡明丸を名乗らせて傍に置いていた。これが延徳三年(1491年)二月のことである。先の将軍義材が就任したのが、延徳二年(1490年)、政元が将軍の首のすげ替えを行った明応の政変が、明応二年(1493年)のことであるから、ちょうどこの中間の時期である。これらの年号に注目したい。なぜなら、この聡明丸は政元によって新将軍の座に据えられた足利義高(当時は義遐)と母方の従兄弟どうしだからだ。
 当初から、終始一貫して義材ではなく天竜寺香厳院清晃を次期将軍に、と目論んでいた政元にとって、このタイミングで自らの推す将軍候補の親戚と養子縁組することは非常に重要なものであったのだ。
 だが、その後、この養子縁組も大変な火種をばらまく事態となる。まあ、今のところは、まだしばらくの間、我が世の春を楽しませてやろう。