畠山尚順イメージ画像
 室町幕府を支えた重鎮には三管領・四職という足利一門や譜代の家臣がなり、外様の守護はその扱いが「格下」と見なされていた。これを端的に表しているものとして、応仁の乱の際に「西軍」が発行した「諸大名連署状」がある。
 周知のように、西軍には後に足利義視が加わり、「西幕府」の「将軍」として、御内書を発布した。それまでの間は将軍がいなかったため、西軍から発行された文書は「管領」発布の「下知状」(管領下知状:将軍が幼少である、などの理由により管領が将軍権力を代行して発給する文書)とするよりほかなかった。そして、時の管領・斯波義廉が西軍に入っていたため、それはまぎれもない「ホンモノ」の管領下知状であった。無論、やがて幕府は細川勝元を管領に任命したから、義廉は事実上罷免されたことになるが。暫くの間は紛れもなく管領であったので、これらの下知状も一応「インチキ」ではなかった。
 だが、何と言っても、将軍と天皇を東軍に抑えられている彼らにはどうも分が悪いので、後には、管領のほかに、同盟関係にある大名らが名を連ねる「連署状」を出す方式が取られた。
 当時このような文書では、身分の低い者から高い者の順に判を押すことになっていたので、管領斯波氏は一番最後に、その前に畠山義就、そして、山名宗全、一色某……と続く複数名の署名であった。ところが、これらの文書には西軍メンバーであるはずの大内政弘の署名はどこにもない。そう、このようなところに署名する資格は彼にはなかったのである。

 幕閣の連中は何もすべてが将軍家の身内であったわけではない。幕府の創立にあたって功績を上げた者も含まれていた。その例が山名家であり、彼らの祖先は『太平記』の時代に足利尊氏と争った新田家の関係者であったにも関わらず、早くから尊氏に与力し、しかも目覚ましい活躍を遂げたお陰で、重く取り立てられていた。そのため、管領家には入れてもらえなかったが、四職には入っている。
 その後、これらの四職を拡大し相伴衆まで広げると、辛うじて大内家の名前が見えるが、結局の所、後から来た外様一族としての扱いは終生変わらなかった。にも拘わらず、西国におけるその軍事力の優位さは抜きんでていたから、事あるごとに協力を求められたのであった。この不公平感に不満を爆発させた先祖の大内義弘が反乱を起こしたことは周知の通りであるが、その内乱鎮圧で義弘を討ち取ったのが畠山満家である。
 当初、斯波家と細川家が交代で勤めていた管領職に、畠山家も加えられ「三管領」となったのはこの満家の父・基国からであった。さて、大内家と曰く因縁の深い細川家については、後述することにして、今回は武護が潜り込んだのを機会にこの畠山家及び斯波家そのほかについて少し見ておこう。歴史は暗記物ではないので、年号や名前を覚える必要は全くない。

 時代はまだ南北朝の頃。侍所頭人であった満家の父・基国は、南朝との戦いで活躍し、越中、能登の守護職が畠山家のものとなった。
 南北朝まで風呂敷を広げていたらこの話のテーマは一体何なのだ? となるので、そこらは各自ネットで調べるなり本を読むなりでお任せ。取り敢えず、南朝側に楠木正儀というえらく強いのがいた。この人物は一旦は幕府に降伏し、河内・和泉・摂津の守護職についていたのだが、その後、再び南朝に寝返ったらしい。
 畠山家はこの楠木某を河内から追い払い、またその後の山名家の反乱(明徳の乱)討伐にも従軍し、最後に大内義弘の反乱鎮圧でも活躍をする。その中で元楠木氏の河内、同じく大内氏の紀伊の守護職も得た。