僧侶・宗景イメージ画像
 紀州というのは面白い所である。
 遥かに守護館を見渡せる高城山の頂で、武護は一人城下を見下ろしていた。半年の間に髪が伸び、もう坊主頭ではなかったが、何とも中途半端な短髪である。しかし、彼はそれを丸出しにして、吹きゆく風を感じていた。
 高城山には畠山家の紀伊での本拠地・平城がある。例の、畠山義豊の名を挙げるまでもなく、畠山家の内訌は応仁の乱の引き金となったくらいだから、遡ればその始まりはもう二十年近く前のことである。だから、義豊が「不法占拠」している河内を取り戻すことが、「惣領家」としての畠山政長の悲願であったとは言え、両者の争いは例の将軍義材の親征以前から延々と続いており、そしてその抗争の舞台も、河内に限った事ではなかったのである。
 両家の争いは、この紀伊国においても激しいものであった。実際の所、尚順は父の領国であった紀伊に帰国したような扱いになってはいたが、そもそも紀伊国内部はすでに政長の代から当時の畠山義就との主たる合戦地の一つであり、今も義就方の勢力がそこかしこに居座っていた。
 元々、彼の地は建武の新政の頃、南朝方の勢力が優勢であった。この頃は、戦時下であったので、将軍家は守護達に強い権限を与え、各地の戦乱を収めることを至上課題としていた。時には守護のみならず、「国将軍」などという軍事担当職を併存させるなどして、反対勢力の鎮圧に力を注いだ。

 律令制とやらが行われていた頃、地方政治は中央から派遣された国司なる者が担っており、国司が政務を行った役所が置かれていた「区画」を「国衙」といった。実際に国司が政務を執る役所を「国庁(政庁)」、それを含めた様々な役所群が「国衙」、国衙がある=その国の政治的中心地としての都市を「国府」と呼んだ。最初はきちんと赴任していた国司はやがて、任国に赴くことをやめてしまい、「目代」と呼ばれる代理人を派遣し、その者と現地の有力者や官人(在庁官人)に政務を任せるようになる(おお、大内家はまさしく周防の在庁官人というやつでした! ここでやっと意味が繋がった……)。更に、鎌倉時代になると、幕府は各地に「守護」を派遣するようになったが、守護が所在する「守護所」はだいたい上の「国衙」の近くに配置されることが多かった。つまり朝廷と幕府、それぞれの役所と役人があった(いた)わけである。両者は場所も近いだけに、やがてその機能は一体化されていった(以上ウィキペディアから仕入れた知識です)。
 今の幕府で最初の紀伊守護となったのは畠山氏であるが、史実的に確認ができる守護所は14世紀に守護職に就いていた山名氏の守護館についてが最初らしい。それは、従来通り国府の国衙近くにあった。だが、南朝勢力に対抗するために、移動に便利な川岸に移され(和佐山)、更に、大野へと移る。
 大野は熊野街道と高野街道とが交差する軍事・交通の要衝であり、守護所の背後には「山城」も築かれていた。山城という呼び方は後世のものらしいが、現代は既にこのような分類がなされているので、そのまま記す。中世の守護たちは大内家も含め、守護「館」のような御殿に住んでいたわけだが、ここには既に戦国時代のような堅固な城が建っていたのである。それだけ、戦乱が絶えなかったということだろう。