足利義材イメージ画像
 越中国・放生津城。ここは、畠山政長の遺臣・神保長誠の居城である。神保家は名門畠山氏の譜代の家臣。応仁の乱の引き金となったとされる、主家の後継者問題に際し、長誠は一貫して養子の政久を推し、その後当主と認められた政長(早逝した政久の弟)の元で「腹心」として活躍してきた。射水・婦負郡守護代(越中国)及び紀伊分郡守護代の地位にあったが、今は中風の病に侵され、主・政長の死に立ち会うこともできなかった。しかし、長い目で見れば、他の重臣共々主に殉ずることができなかったことは、不忠どころか忠義の見せ所となった。世の中何事も命あっての物種。主の遺児・尚順を守ってやることができるのも、将軍義材を救い出すことができたのも、彼が存命であったゆえにである。
 さて、長誠配下の者の働きによって、無事越中国に逃れることができた将軍・義材であったが、最初のうちこそ、自信がみなぎり、我こそが真の将軍である、などと喜んでいたのだが、すぐにまたしぼんでしまった。
「ふう……またどうしてこんな『越中の片田舎』などに来てしまったのかのぉ」
 ここに来られなかったら、未だに細川政元の家臣風情の屋敷に囚われていたか、あるいは島流しにされたり、殺されたりしていたかも知れぬというのに、この有様である。
 しかし、義材の側にも言い分はあった。「忠臣」畠山政長は自らの死後も義材の身を案じ、息子の尚順にも必ずや義材の復職が叶えられるよう全力を尽くせと言い残していた。そして、主の遺言通りに配下の者らが自らの救出に動いてくれた。しかし、その後は、待てど暮らせど、「復職」のために何かをしてくれる気配がない。
 しかも、越中は京の都から見たら相当に辺鄙な地である上、匿ってくれているのは当主の尚順ではなく、その「家臣」である。主の城ならまだましなのかも知れないが、ここは最悪であった。御所内で見目麗しい女房達に傅かれ、葉室光忠のような心地よい追従で楽しませてくれた側近に囲まれていた義材は、すぐにこの「片田舎」の質素な暮らしに飽きてしまったのだ。
「必ずや公方様を再び京にお戻しします」というのが神保長誠の口癖であるが、最初は嬉しかったその言葉も、今は何やら白々しいものにしか聞こえなかった。一体、これらの連中は、本当にやる気があるのか? もうこれ以上こんな田舎暮らしは耐えられない。
 義材のこうした我儘は、あまりに分かりやすかったので、長誠にもまるわかりであった。育ちが良すぎて世間のことを知らないのだと気の毒に思うのだが、考えてみたら、「美濃の片田舎」を体験しているはずの義材であるから、多少の不便は我慢してくれてもいいはずではないか。
 確かに、美濃下向の際には、身柄を引き受けた土岐氏や斎藤氏があれこれと面倒を見てくれていたようだし、葉室光忠のような人物が同じ時期に同じ場所に下向していたお陰で、それなりに楽しめたのであろう。しかし、現在こちらの畠山家は当主の尚順すら命の保証はない状態。長誠とて病身を押してまで助けてやっているのだから、その辺りを配慮することは出来ぬのであろうか?
 正直、世の中はますます実力主義の方向に傾いて行きつつあるのだから、現状を維持することすら簡単ではないのである。長誠が病に侵されているとなれば、これを良い機会と見なして悪さを働こうという者が幾らでもいる。正直なところ、今ある領国を守っていくことだけでも精一杯なのである。そこへ、とんでもなく面倒な「居候」まで。
 長誠とても、義材よりも先に、主の遺児である尚順のほうが気になる。ここよりは京に近い、つまり宿敵である細川政元の地盤に近い紀州の地で、若殿様は一体どんな暮らしをなさっているのだろうか? 本来ならば、すぐにもお傍に駆けつけてお力になりたいと思うのである。しかし、政長の最後の戦にも付き添えなかったくらい重症の身では思うに任せない。それに、尚順からは自分のことはどうでも良いので、とにかく義材を守って欲しいとの連絡を受けていた。
 こんな将軍様のためにそこまでするのか? 例の畠山基家を倒し、悲願のお家統一を成し遂げていたのなら、この御方は確かに救いの神であるが、それは叶わなかったのである。逆に河内国は「名実ともに」宿敵・畠山基家のものとなってしまったわけだし、あの男は、残る紀伊と越中にも手を伸ばすに決まっている。しかも、当然のごとく、現将軍の錦の御旗を翳した細川政元がそれを後押しするとなれば、我らに勝ち目などないではないか。
 自らの身を守ることすら危ういのに、将軍様の身を案じる尚順の忠義のほどをご立派な事であると頼もしく感じると同時に、このような人物のために身を亡ぼすことになる尚順や自分自身を想像すると、何とも惨めであった。