大内義興イメージ画像
 明応二年(1493年)六月、将軍義材は畠山政長の遺臣らしき者たちに助けられ、京から逃亡することに成功し、政長の分国であった越中へと下って行った。
 この事態に細川政元は激怒し、厄介な人物の身柄を預かっていた上原元秀は大目玉を喰らうことになってしまったのだが、まあ、どうせ美濃の片田舎から来た者が今度は越中の片田舎へと去っていたのだと思えばどうということもない。
 取り敢えずは邪魔者が消えてくれたので、その場はよしということになった。京では、日野富子が義材を殺そうとして毒を盛ったという噂が流れたが、事の真偽は確かめようがなかった。だいたいが未遂に終わってしまったからこそ義材は逃げおおせたわけで、どうせなら本当に消してしまってくれれば有り難かったのだが。
 さて、義材の逃亡劇については、摂津にいた新介の元にも知らせが届いた。将軍の無事が確認できたのであれば、もはややることは何もなかった。少なくとも、将軍など誰であれ、それこそ武護の言う通り、新介には関係がないのだ。
 ただ何の罪もない人間がつまらぬ政争の犠牲となって命を落とす事態は見許しにできなかったし、それが父と縁のある者となれば、ますますもって加勢する必要を感じていた。だが、どうやら今はもう、その必要もないようである。あんな「将軍様」であったが、助けてやる者はちゃんといたのだ。
 例の葉室と畠山政長の死に関しては、前者は新介にも理解しがたい謎の男であったから、特に何の感慨も浮かばない。政長については、その後義材が彼の領国越中へ落ち延びて行った事などを考慮すると、そこそこ立派な忠義の臣下であったように思えたから、気の毒なことではあった。
「やることがなくなった」にもかかわらず、その後二月ばかりの間、大内の軍勢は兵庫を動かなかった。国へ帰れば、父政弘に怒鳴りつけられることは必至であったし、来た時には傍にいた者がいなくなっているという事実が、新介を帰国の道から遠ざけ、その場に押し止めていたのである。
 暫くして、母の今小路が京に残っていた者たちと共に兵庫に到着した。しかし、珠の姿はなかった。既に、珠の一件が武護による「やらせ」であったことを伝え聞いていた新介だったが、肝心の珠も、武護もいないのでは、彼らの「武勇伝」を聞く楽しみがないではないか。
 今小路の説明によれば、珠は畠山(畠山だらけでややこしいが、政長でも基家でもなく、今小路の実家の能登畠山)家の一家臣の元に嫁入り先が決まったとのことであった。相手はもはや名もない一家臣であったし、珠そのものが、歴史書等の類にはその存在そのものがない。ただ、この「かどわかし」事件の話だけが伝えられているばかりなのである。
 だが、恐らくは、新介には本当に珠(名前などそれこそ分からない)のような妹がおり、そして、この類の事件に巻き込まれたのは事実なのであろう。しかし、その後どうなったのかまで、詳細に記している「史料」がないと見えて、そこらの歴史書では仔細を確かめられないと言う極めて不親切な扱いである。
 たとえ、相手が殿様に頼まれ、無理やりに結婚を強要されたのであったとしても、一応の落ち着き先が決まり、今小路としてはこれで満足するしかなかった。珠にしたら、つまらぬ噂のせいで婚約を破棄してくるような公家の元に嫁ぐなどこちらから願い下げなので、気にもしなかった。だが、今小路も新介も能登まで見送りには来てくれないことだけが寂しかった。  珠の身代わりとなって囚われていた侍女の楓も無事に返され、主と共に能登へ向かうことになった。
 恐らくは、娘とはこれが永久の別れとなるのであろう。周防から能登まで、どれだけ遠いのか。それは嫁ぎ先が京の公家のままだったとしても同じであったが。今小路は最後に愛おしそうに珠を抱きしめ、寂しさを押し隠して笑顔で見送った。珠も流れる涙を拭いつつ、笑顔を作り、母の手に何やら書き付けを手渡した。
「これを兄上に。その……母上は中を見ないで下さい」
 見るなと言われても、きっと見られてしまうのは仕方の無いことであった。