足利義材イメージ画像
 河内に入った将軍・義材は上機嫌であった。先の近江に続き、此度も大勝利を収めれば、将軍としての評価も高まり、もはや「美濃の片田舎」から出てきたなどと揶揄されることもなくなるであろうし、あれらの口うるさい幕閣たちもおとなしくなることであろう。
 彼を取り巻く者たちもまた同じ思いである。まずは権大納言・葉室光忠。かつての将軍様同様、美濃の片田舎に追放され尾羽打ち枯らした貧乏公家が今や権大納言である。この怪しげな男の昇進は公卿たちの顰蹙を買っていたものの、本人は気にも留めていなかった。何しろ、将軍様とは「美濃の片田舎」で苦楽を共にした仲。当然年も上であるし、大御所・義視亡き後、父親代わりにでもなったつもりである。やっていることはただの腰巾着であったが。
 そして、この男には、もう一つ、一風変わった趣味があった。見てくれもその語りや所作等何一つとっても紛れもなく完璧な「公家」であったにもかかわらず、彼自身は「武家」に憧れていたのだ。よって、義材の近江への遠征にも、そして、此度の河内への遠征にも付き添っていた。
 まあ、将軍様が取り巻きの公家を陣中に伴ってくることなど珍しくもない。先代の義尚など一年半もの長きに渡り鈎に居座っていたのだから、陣中で歌宴を開いたことも数え切れないのだ。当然、多くの取り巻きの公家たちがお傍について将軍様を楽しませていた。だが、この葉室の場合はそうではなく、無論、その方面にも造詣はあったであろうが、それこそ、戦で手柄でも立てて将軍様の元で武働きをしてみたい、という願望があった。実際にはそんな機会はなかったのだが。
 さて、そして、もう一人の大者、畠山政長であるが、これはもう、いよいよ念願かなって河内に兵を進めることが出来、感無量であった。これで、漸くあの憎らしい畠山義就を葬り去り、先の大乱の前から続く、恨みを晴らすことが出来るのだ。義材も言った通り、既に義就は世を去り、河内の主も代替わりしていたのだが、政長の中ではまだあの憎っくき義就が亡霊のように居座っていた。その子孫を根絶やしにし、分裂した畠山の家系を一つにまとめること、これが政長の悲願である。そして、今まさに、あやつらの運命は風前の灯火となっていた。
 何しろ、先の六角行高を見ても分かる通り、将軍親征ともなれば「大義名分」を掲げ諸大名の大軍を伴っている。行高もその威容に怖れをなして、そそくさと甲賀の山の中へ逃げ込んだではないか。先の将軍義尚は六角行高の首に拘り遠征を仕損じたが、今回は政長が、畠山基家一味の首級を集めねば気が済まない。今度こそ完全にあやつらの息の根を止め、その血筋が二度と担ぎ出されることのないよう、一人残らずあの世へ送るのだ。自らの私怨を晴らすためには、ここまで、「完璧に」考えが至る政長であったのに、転んでもただでは起きない細川政元のような男を京に放置して来たのは致命的なミスだった。
 しかし、彼らの側にも考えはあって、義材にとっても、何かにつけて反対ばかりする細川政元は口うるさい邪魔者筆頭。しかも、将軍後継者問題では自分を「推さなかった」人物でもあるから、気にくわぬことこの上ない。よって、政元の処分についても既にそれなりの計画を練り上げていた。
 思えば、義材の祖父でもある足利義教。彼こそは将軍家の威信の回復のために奮闘したのではなかったか。同じようにして、気に入らない連中はどんどん片付ける。それには、後継者問題への介入ほどやりやすいものはない。幸い、怪しげな修行に凝っている政元には実子がいないのである。
 そこで、義材は同じ細川家の庶流一門である、阿波の守護細川之勝に目をつけた。無論、政長らの入れ知恵があったからに他ならない。まずは、之勝に自らの「義」の字を与えた。もともと、将軍様はじめ主が配下に「一字拝領」させるのは大流行していたから、特に珍しいことでもない。幕閣の連中が皆「政」長、「政」元、「政」則……の如く名乗っているのは、彼らが先々代の将軍義政からの家臣であり、その「政」の字を頂戴しているからである。
 しかし、これが義政の「政」ではなく、「義」の字を頂戴したとしたら大事なのである。つまり将軍様の名前の上のほうの字は将軍家に代々受け継がれる「通字」であって、そうやすやすと頂戴できるものではないのだ(こうしてみると、新介が先代義尚から「義」の字を頂戴したのは、とんでもない恩恵であったことが分かる)。