相も変わらず何の進展もない京での日々。
 もはや物見遊山に出かける先もなくなったので、新介にとっては、ただひたすらに手持無沙汰な毎日が続く。
 母や妹もいるから、話し相手には事欠かぬのだが、一番頼りになるはずの武護はこの所一人でふらりと出かけて行ってしまうことが多く、新介は常に置き去りにされた。
 毎日毎日女子供の相手をさせられていると、ますます鬱憤が溜まって行くのであった。

 そもそも、大内家には「京屋敷」なるものがない。細川だの、畠山だのは皆京に住み、たいそうな屋敷を構えている。彼らは幕閣として常に将軍様のお傍にあるのだから、当然ではあるのだが。大内家の当主は半ば在京、半ば在国という状態である。基本は国許で領国経営に励みたいところだが、名目は京にて将軍様のお傍にいなくてはならないのであるから、長いこと在京していた先祖もいた。父の政弘とて、十年も京にあったから、半ば在京であるが、あれは戦時下のことで「従軍」していたので、やや事情が違う。
 但し、将軍様からの呼び出しにはすぐに応じなければならないので、「大内家在京雑掌」なるお役の者を駐在させていた。常はその職にある者が将軍様との間を取り持つことになる。そこで、解決できない大ごととなって初めて、国許へ使者が遣わされる。当然のことながら、「外交」を司るのであるから、京の事情にも通じ、人付き合いも上手い者がその任に就くことが望ましい。時には、僧侶などが担うこともあった。
 ほかの守護達も事情は似たようなもので、あれこれの理由を付けて、将軍様からの呼び出しを無視し、分国を離れようとしないものも多かったから、彼らにも同じような「××家在京雑掌」のような者がおり、常に在京していた。これは何も在国の守護達に限らず、在京の守護でもこの在京雑掌を置いていたという。彼らとて、支配国はある。たまには京を留守にして下向することもあったのだろう。

 現在の幕府の下で、正式に家臣としての地位を認められたのは、大内弘世が最初である。弘世が政権参加ご挨拶のために上洛した時から、大内家当主と京とのかかわりが始まった。『太平記』には弘世一行の贅を凝らした様を見て、西国から来た聞いたこともない太守様が富貴であることに驚く京の人々の様が記されている。しかし、弘世の上洛はこの時が最初にして最後であった。
 続く『応永記』の主人公・義弘であるが、これも何度か上洛を果たしているものの、長期に渡り「在京」したかどうかはよく分からない。幕府の為に九州で転戦していたことを考えても、そんな余裕はなかったであろう。むしろ、将軍・義満のほうが周防に下向し、義弘の歓待を受けたことのほうが目を引く出来事であった。
 さて、義弘の次の当主は盛見であるが、将軍・義持が将軍職を継いだ際に、その就任祝いのために上洛を果たした。この頃、京で囁かれていた言葉に、「相撲よりときめきたき物は二あり、大内のくたり、御所の黄衣」というものがある。京を離れ、分国周防に下向していく大内家の陣容の華々しい様は、これまた京の人の胸をときめかせるほどであったのだ。
 これほどまでの繁栄ぶりであるから、当然その軍事力も相当なものであろう。盛見自身将軍様の覚えもめでたく、本人はその後在京して、幕閣として傍近くお仕えすることも模索していたのかも知れない。なぜなら、在京中に用いる宿舎として「六条家」と呼ばれる屋敷を建てたからである。
 単なる「宿舎」とは言え、なかなかどうしてその財力に見合った豪勢な造り。庭園にはちょっとした舟遊びを楽しむことができる池まであり、「飛泉亭」、「蓬月亭」と名付けられた四阿から眺めるその庭園の美しさはなかなかのものであったようだ。ゆえに、将軍様の御成もあったし、明国の使節団が上洛した際には、この建物が宿舎にあてられたほどだった。将軍・義持は盛見に書を与え、飛泉亭にはその扁額が飾られていたという。
 だが、その後永享六年(1434年)二月、この「六条家」は火災により焼失してしまった。だから、残念なことに、新介には曾祖父の造ったこの庭園を見ることはもう出来ぬのであった。