父義視の死後、政務の経験の浅い義材はすべてを畠山政長に頼った。
 時間は少し巻き戻るが、政長の政敵である細川政元に担ぎ上げられていた香厳院清晃は、日野富子から小川御所をもらい、そこに入ることになった。これが、富子が政元と手を組み、義材を追い出して清晃をその後釜に据えるためだ、という噂が流れた。父の義視はそれを信じ、彼らの「企み」を排除するため、清晃の入所が決まっていた小川御所を取り壊させた。しかし、ここは日野富子がかつて、息子の義尚と過ごした思い出深い場所であったから、富子の怒りを買ってしまう。そればかりか、義視父子は富子の所領まで取り上げた。先の「噂」がまったくの根も葉もないものだったのかは確かめようがないが、少なくとも当初は義視父子のほうに好意的であったはずの富子が、彼らに嫌悪感を抱いたのは疑いようもない。
 無論、義材はそんなことには気付かない。むしろ、自らが将軍職に就き、その身分が安定したと錯覚するや「恩人」とも言うべき富子を政権から追い出そうとした。何しろ、「悪女」と噂される富子は名前の通り、莫大な「富」を手にしており、しかも先代の将軍の元では、やる気をなくした夫に代わり、女人の身で幼い将軍を補佐して国政に口を挟んでいたような人物である。義材にとっては煙たいし、幕府の名誉のためにもこのような悪名高い女をのさばらせておくのは好ましくない。
 確かに、恩着せがましく年寄り風を吹かす伯母は邪魔であったかもしれないが、義材が真に聡明であったなら、もっと頭を働かせるべきであった。これは側近の畠山政長にも言える。邪魔者は完全にその息の根を止めるか、懐柔するか、二つに一つである。中途半端に放置することはあまりにも危険なのだ。そこは、義材の経験不足だったとしか言いようがない。この件で、富子は義材及びそのブレーンたる畠山政長と敵対し、その「敵の敵」である細川政元に近付くことになる。

 名実ともに「将軍」となった義材は、政長の進言に従い、先ずは、前将軍が着手しつつも果たせなかった六角討伐をやり遂げることを最初の課題と定めた。延徳三年(1491年)のことである。

 力のある者がなりあがる「下剋上」の風潮は、この頃すでに世間に蔓延し始めており、皇室・公家・寺社といった旧勢力はその領地を新興勢力たちに浸食され、諸国は無法地帯となっていた。「力ある者」は平然とそれらを横領し、自国の領地としていったのだ。このような不届きな行いに及ぶ者は諸国の大名のみならず、実は幕臣のなかにさえいた。だが、幕府には既にそれを抑える力がない。ここで、何とか巻き返しをはかり、こうした悪行をやめさせねば。それこそ権威は地に落ちる。
 先の六角討伐は幕府権力の回復と、不法行為を行う者たちへの「見せしめ」となるべきはずのものであった。このような横領を行っているのは、何も六角氏だけではないわけだが、特に六角氏のそれは目に余るものがあり、将軍家の直轄地までをも侵していた。しかも領国の近江は京の目と鼻の先。これを見過ごしたとあってはそれこそ沽券に関わる。だが、密かに同じようなことをやっている守護たちにとっては、どうでも良いどころか、次は我が身と思えば他人事ではない。
 しかし、六角行高は近江の守護なのであるから、横領して自国の領地とするというのはおかしいのではないのか? そもそも、近江の国は六角家のものなのでは? と思われるかも知れない。しかし、そうではないのである。
 ならば、そもそも、守護とは何ぞや? ということが重要となってくる。例えば河内の国の守護であれば、当然河内の国に住み、そこの領地を所有しているんだろう? と思うがそうとも言えない。中には、元々の国人(その地に住む土豪のような者)からその国の守護になりあがったものもいるにはいたが、「守護職」というのはあくまで幕府から任命される役職の名前である。よって、必ずしもその国の「領主」=土地所有者とは限らない。考えてみて欲しい。一人で何カ国もの守護となっている人物は分身の術でも使わない限り、すべての国に住み、それらすべてを統治するなど不可能ではないか。当然、それぞれの国にはそれぞれの領主がいる。領主=土地所有者も色々で、中には寺社やら京に住む公家やらの土地もある。なので、直接そこに住んでいるとは限らないし、国をまるごと領地化しているような大物がいるわけでもない。
 つまり、守護は幕府から任命され、その国の支配権を得てはいるが、必ずしもその土地の所有者=領主ではない。少なくとも、元々はそうであった。だから、彼らは、在京し、将軍様の元で任務を果たしつつ、その機嫌を取る必要があった。もしも、なんらかの政争に巻き込まれ追い落とされれば、名ばかりの「守護職」などあっという間に失われてしまうからだ。