篠は文机に向かうと、香を焚きしめた紙の上に、流麗な文字でさらさらと一首書き付けた。それを小さく折り畳み、そっと花の手の中に押し込む。
「……これを……」
「は? お、お嬢様、まさかこれ、恋文とか何かではないですよね? こんなことをして、お殿様に知れたらたいへんですよ。叱られるのは私です」
 しかし、篠は恥ずかしそうに頬を赤らめて俯いたまま、花の言葉には答えなかった。
 まったく、何てこと? 吹けば飛びそうなほど気が弱いはずのお嬢様が、何だってこんなに大胆なんでしょう? 花は理解に苦しむ。だが、お嬢様が大好きな恋物語の類いにはきっとこんな手紙のやりとりなんぞがあるのだろう。
 だが、花はどことなく不安なのである。お嬢様には縁談が持ち上がっていたはずであるし、その相手は陶様ではない。そして、問題の陶様だが……。あの日、川岸で花に戯れかかって来たのを見て分る通り、どうやら軽薄な遊び人だ。
 あれだけの美男子で、しかも名門の子弟、いや若いながらもご当主だ。それならば、女遊びも盛んにやっているに違いない。お嬢様どころか、花でさえぼっとなったのだから、御館内の女達とて同じはずである。それこそ、取っ換え引っ換え次々とそこら中の女達を弄んでいるかも知れない。
 お嬢様の純愛も、遊ばれて終わりに違いないのだ。そうと分っていてこんな使いを引き受けるわけには……。
「一度きりですからね」
 花は自分自身と篠とに、言い聞かせるように呟いた。
「それに、もしも若様のお屋敷の人に追い払われたらそれまでですよ」

 その日のうちに、花は陶家の使いの者から、お嬢様宛の書状を受け取った。
 お嬢様に恋文の使いを頼まれ、裏口から誰ぞに金を掴ませて、と考えた花であったが、それではきちんと若様に届くかどうか分らない。それで、思い切って正面突破を試みた。
 陶家ほどの名門のお屋敷ならば、それがどこにあるか知らぬ者などいない。花はすぐにお屋敷を探し当てると、正々堂々とその正門の外で待ち構え、御館へお勤めに向かおうと出てきた若様に声をかけたのである。
「無礼な。何やつだ?」
 お供の家来は限りなく感じが悪い男だったが、幸いにも若様のほうが、花を覚えていてくれた。
「お前は確か……あの蛍見物の時の娘ではないか」
「はい。私です。その……」
 どうやら主人の見知った相手と知れると、お供らはその場を外してくれた。ちょっと離れたところで何やらにやにや笑ってこちらを見ている。

「どうした? 俺のことが忘れられず、わざわざ訪ねて来たのか?」
 そう言って涼やかに笑う様は、まさに一幅の絵のようである。もはやこれは、世の女達全ての敵ではないかと思う。こうやってどれほどの女を口説いているのだろうか? 花は思わずとろけそうになるのをこらえつつ、お嬢様の文を手渡した。
「これは?」
 武護はちょっと眉をひそめる。
「お嬢様からです」
 花は小声で囁いた。
「出来たらお返事を頂きたいのですが……」
 若様はそのまま文を懐に入れると、ふっと笑った。
「今は時間がないゆえ、後程届けさせよう。それで、お前の名は?」
「花、と申します」
「あまりにも、だな」
 陶武護はそう言い残して、馬上の人となり、お役目に出かけて行った。

(ちょっ、あまりにも、って何?)
 どうせ自分の名前があまりにも芸がないと言いたいのだろう。そんなことくらい、分っている。だが、使用人の名前なんて皆こんなものではないか。
 花は若様からの返事など、「まったく」期待していなかった。これで、お嬢様が「相手にもされていない」ことに気付き、きれいさっぱり諦めてくれればそれで良いのだ。
(それなのに何で? ご丁寧に返事まで……)
 いい加減にしないとたいへんなことになる。そう思いつつもその「返事」をお嬢様に届けてしまう花であった……。

 篠は胸をときめかせながら、その文を開いた。花も脇から覗き込む。
 お嬢様に負けず劣らず流麗な、しかしこちらは男らしく力強い文字で、やはり何やら歌が書かれていた。和歌の素養などない花には見てもまるで分らない。だいたい、使用人の身分では読める文字にも限りがある。学問好きのお嬢様のお傍で育ったお陰で、多少の読み書きが出来るというだけなのだ。
「まあ……」
 お嬢様はそう言って、ぱっと頬を赤らめると、大事そうにその文を胸に抱いた。
「あの……お嬢様、お返事には何と?」
「私、あの日ご一緒に蛍を見たことが忘れられなくて、このお歌が欲しいがために、その本歌をお送りしたの。でも、通じるかどうか、本当は不安だった。だけど、あのお方は分って下さった。私の思いが通じたのだわ。だって、私達、あの夜ともに蛍を見たのだもの」