内藤弘矩の娘・篠は蛍見物に出かけた夜に、新介様のお傍に仕える陶武護と出逢い、一目惚れをしてしまった。無論、その場では本人が名乗った以上のことは分らなかった。だが、使用人の花が直ぐに身元調査を行い、若子様の傍仕えだと知れた。
 つまり、あの時彼と共にいた「小生意気な」子供は、父の弘矩がお仕えしている御館様の若君だったのである。小生意気どころか、単にその身分に相応しい言動をとっていたに過ぎない。だいたい、武護自身が若いながらも弘矩と同じ身分なのだから、そんな人物が傅く相手と言えばもう主君の関係者以外ない。
 陶家はご主君の同族一門として権勢を誇っていたが、先代の弘護様は殿中で吉見なにがしとかいう者に斬り殺されてしまわれたのだとか。御館様がお住まいになる御殿の中で、そんな恐ろしい出来事があったなど、自宅の奥深くで大切に育てられてきた篠には想像することもできない。
「その吉見とかいう悪党を成敗なさったのが、うちのお殿様だそうですよ!」
 花が鬼の首でも取ったかのように言う。
「え? 父上が?」
「そうですよ。お父上の仇にあたる狼藉者を成敗して下さった訳ですから、うちのお殿様はあの若様にとって、『恩人』みたいなものではありませんか」
「そう……かしら?」
 篠は首を傾げた。
「そうですとも」
 花がそうだと言うのなら、そうなのかもしれない。篠は人任せにそんな風に考える。
「でも、変ですよね。陶家は家中一の名門、しかも、若様はあれほどのご器量なんです。その上、こんな『ご縁』があったのですから、お殿様が真っ先にお嬢様のお相手にご指名しても良さそうに思えるんですけど……」
「……」

 そんな大人の事情、花にも分らないのなら、篠に分るはずがないではないか。もしかしたら、相手のほうから断られたのかも知れないし。「変なこと」はそれだけに留まらない。あの夜、父・弘矩は「大切な話がある」と篠を呼びつけたはず。そして、篠は「娘を『子供』に嫁がせるとは」と父を怒鳴りつけている母の声を耳にしてしまい、怖くなってその場を離れたのだった。
 だが、呼びつけたはずの娘が途中で引き返してしまったことで、弘矩が篠を叱りつけることはなかったし、その後例の子供と縁組みさせられると言う話を両親の口から聞くこともなかった。あれは一体なんだったのか? そもそもすべてが己の早とちりであったのだろうか。いや、そんなはずはない。母はよほど取り乱していたらしく、部屋の外まで聞こえるほどの大声をあげていた。常にはないことである。
 でも、例えあの日の出来事がすべて夢幻であったとしても、武護様とお会いしたことだけは現実であって欲しい。今もあの眩いばかりの凜々しいお姿が目に焼き付いて離れないのだ。これが夢であったなら、せめて少しでも長いこと覚めないままであって欲しい。
 あの日からもう数え切れない夜を、夢の中で共に過ごしている。篠にとってはもう、あのお方以外の殿方など想像することはできなかった。愛読する『源氏物語』の中で、源氏の君がどれほど麗しいと絶賛されていようが、篠はもうそんな書物の中に書かれたお人などに何の興味も湧かなくなった。篠の頭の中にはもはや、武護様のお姿しか思い浮かばす、寝ても覚めても武護様のことばかりを考えるようになってしまっていたのだ。
 例の「子供」との縁談が破談になったのか、それとも、ほかにまた別の相手を探しているのか知らないけれど、もう子供であれ大人であれ、他の殿方の元になど嫁ぐ気はさらさらない。そんなことになったら尼寺にでも行けば良いのだ。

 花はお嬢様のこの「恋煩い」に気付き、思い悩んでいた。あの夜、無理矢理外に連れ出したりしなければ、その後のことはなかったのである。今の所、お殿様には知られていないようだが、もしもその耳に入ったら、責任を問われるのは自分である。面倒な事になってしまったものだ。
 毎日毎日、朝から晩までぼんやりと溜息ばかりついているお嬢様。まあ、それ以前もどちらかと言えば、ぼんやりしたお方ではあったが。今は何をきいても上の空。花以外誰もいない部屋の中で、ふいに頬を赤らめたかと思えば、今度は悲しそうに目元を潤ませている。それが誰のためか、言わずとも知れたが、こうなるともう病気である。
「お嬢様、遅かれ早かれ、お殿様から縁談の話が来るはずです。残念ながら、お相手を決めるのはお殿様のような殿方であって、お嬢様のような娘御ではないのです。いい加減目を覚まして下さい」
「でも陶様はまだお一人なんでしょう?」
 そう尋ねる篠の目は据わっている。女の一念岩をも透す……。花はちょっぴり背筋に寒いものを感じた。
「そのようですが……」
 余計な事を言うのではなかった。他ならぬ花が調べてきたことだったが、武護様まだ独り身だ。