「どうやら私、嫁ぎ先が決まったようだわ」
 自室に戻ると、弘矩の娘・篠は幼い頃から共に育った傍仕えの娘・花に言った。
「本当ですか? お嬢様。漸く、『光源氏の君』にお会いできるのですね?」
 愛くるしい瞳を輝かせる花に向かい、篠は寂しそうに首を振った。
「どうやら違うようなの。相手は『子供』みたい」
「『子供』ですか?」
「ええ。母上が泣いて怒っていらした」
 篠は深く溜息をつき、ぼんやりと文机の上に置かれた書きかけの文字を眺めている。今日もまた、お気に入りの恋の歌を書き写していたのだ。
 お嬢様はいつもこうだ。花もまた溜息をつく。
 彼女の女主人はおっとりし過ぎてややぼんやりとしたところがある。育ちが良いからといえばそれまでであるが、気性が弱く、何事においてもびくびくとしている。お父上に大切にされすぎたせいで「行き後れ」となり、未だに思い人となる将来の夫君も見付からない。
 結局の所、女の人生など嫁入りして終わり。相手が優しくて、家が栄えていればそれで満足せねばならぬのだ。お嬢様は学問のやり過ぎであれこれの恋物語や恋の歌に憧れ、見目麗しい若様と結ばれることを夢見て育った。それを叶えようと頑張りすぎたお殿様は、やや格下の家柄だとか、器量が悪いとか、つまらない理由で持ち込まれる縁談を悉く断り続け、とうとうお嬢様を、行き場がなくなるまで追い詰めてしまった。挙げ句「子供」に嫁がされるとあっては、お嬢様の恋物語は永遠に叶わぬ夢となってしまう。なんてお気の毒。ただでさえ、ぼっとして、ひ弱なお嬢様が、恐ろしい姑の元で夫ならぬ「子供」の面倒を見さされている様を思うと、花にはそれが自分のことのように悲しく思えるのだった。
 主人の篠と違って、快活で頭の回転の早いこの娘には、お嬢様には見えないあれこれも見えてしまう。

「お嬢様、外へ出ませんか。お庭の花が綺麗に咲いていますよ」
「何を言うの。こんな季節に。桜も梅もないではないの。だいたい、外はもう暗いわ」
 篠はぼんやりと言った。
 花が強引に障子を開け放つと、蒸し暑い部屋のなかに、爽やかな初夏の風が吹き込んで来る。
 庭園の池の上に、ぼんやりと光が見えた。
「あら、蛍だわ」
 篠がふっと呟いた。
 それを聞いた花は良いことを思いついた。
「お嬢様、蛍を見に行きませんか? お屋敷の庭も良いけれど、川に行けば、もっと沢山の蛍が群れて、それこそ夢のような景色だとか」
「嫌よ。こんな時間に外へ出るなんて」
「だって、蛍は昼間は見えません。きっと、皆一の坂川に蛍見物に行っているはずですよ。わたしたちも行きましょうよ。綺麗な物を見て、嫌なことは忘れてしまえばいいんです」
「綺麗なものを見たからといって、何もかわることはないのよ」
 篠はまたぼんやりと言った。
(ああ、またこれだ)
 常に後ろ向きで、ひ弱なお嬢様。
 花は強引にその手を引っ張って屋敷の外へと連れ出した。
 確かに蛍見物に行ったところで、お父上の決めた婚儀は覆らない。でも、せめてその「子供」のもとへ嫁ぐまでの日々、楽しく過ごしたほうが泣き暮らすよりはマシではないか。

 一の坂川は京の鴨川を模して整備された。春は川岸の桜。夏は川面の蛍火が美しい。
 思った通り、川岸は多くの老若男女でごった返し、まるで二月会の結願の日のよう。大勢の人々が川面を飛び交う蛍の群れを見に来ていたのだ。
「まあ、なんて綺麗なんでしょう」
 花は篠の手を引っ張って、人混みをかき分け、少しでもよく見える場所を探した。
「いやよ、こんなに沢山の人が……」
 篠は臆病で人見知り。見知らぬ下々の町人風情に混じって蛍見物など真っ平ごめんである。
「いいじゃないですか。ここは太守様のお陰でこんなにも栄えて民も潤っているのです。だからこそ、こうやって皆が楽しむ事ができるのですよ。京なんて、昼間も盗人が出るくらいだって聞きますのに」
「待って頂戴、そんなに早く歩かなくても……」
 篠は主の身分であるとはいえ、気の強い使用人には敵わない。ぶつぶつと言いながらもその手に引かれるままとなった。そうして二人は、どんどん川上へ向かい、それらの人の群れから外れていった。
「あら?」
 どういうわけか、川下のほうには大勢の人がいたのに、少し離れたその場所は閑散としていた。
 花はそれを訝しんだのであるが、篠のほうはやっと見知らぬ一群から逃れて、ほっと一息をついていた。花の行動力には常に圧倒される。荒くなった息を鎮めつつ、ふと川面を眺めやると、蛍の群れが、淡い光を放ちながら舞い踊っているかのようであった。
「まあ、なんて綺麗なんでしょう……」
 篠が夢のように呟くのを聴き、花はほっと胸を撫で下ろした。結局、お嬢様はお父上の導くがままに大人しく従うお方だ。その定めを変える力はお嬢様にはないし、素直にそれを受け入れることが出来るお方だ。でも、怖い姑や子守させられることになるという子供の元に嫁ぐまでの日々は、せめて心安らかに、出来る限りのことをして羽を伸ばして欲しい。そう思うのだ。