長享三年(1489年)、将軍・義煕の早すぎる死に、京ではまた一波乱が起こっていた。義煕にはまだ実子がいなかったので、当然足利一門のうちの誰かを連れて来てその後釜に据える、ということになる。それを誰にするか、というのが問題となったのだ。
 候補に挙がったのは義煕の二人の従兄弟で、一人は義煕の父義政の弟・義視の子義材。そして、もう一人は同じく義政の兄で堀越公方・政知の子香厳院清晃である。

 管領・細川政元は清晃を強く推していた。何しろ、義材の父・義視は応仁の乱の際、父・細川勝元と敵対していた「西軍」の連中に「西幕府の将軍」などと担ぎ上げられていた人物だ。戦後は元「西軍」の土岐成頼、斎藤妙椿らの庇護を受け、彼らの分国美濃にひっそりと隠れ住んでいる状態。もはや「過去の」人である。それに引き換え清晃は、嫡男ではないがため、出家させられてはいたが、れっきとした堀越公方の御子である。
 元々、政知と義視はともに義政の兄と弟。例によって元々は僧籍にあった。義政の父・義教が赤松家に暗殺された時、御所内で育てられていたのは嫡男・義勝とその同母弟であった義政の二人だけである。本来ならば、僧籍にあるはずの義政が御所内に留められていたのは兄の義勝があまりにも病弱であったためであることは既に述べた通り。そして、義教の跡を継いで七代将軍となった義勝は皆が案じていた通り、わずか十歳であっけなく世を去り、その後義政が将軍となった。
 そして、いきなり隠居を思いついた義政が、弟・義視に次期将軍職をちらつかせ、還俗を迫ったのも見てきた通りだが、では、この時もう一人の兄弟政知のほうはどうなっていたのかと言えば、義視が兄の命で還俗した寛正五年(1464年)時点で、「堀越公方」として伊豆の地にあった。還俗したのも義視より早い長禄元年(1457年)のことである。

 室町幕府は当初、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐の関東十カ国を統治する機関として、「鎌倉府」を設置していた。そこで政務をとっていたのは代々「鎌倉公方」と呼ばれる足利家の一門であった。だが、やがて関東における諸々の戦乱や京の幕府との対立などによって鎌倉府は断絶する。
 永享十一年(1439年)第四代の鎌倉公方・足利持氏は六代将軍・義教および関東管領・上杉憲実らと対立して討伐されてしまい(永享の乱)、鎌倉府は滅亡した。だが、義教の死後、持氏の旧臣や関東諸将から幕府宛に鎌倉府再興の働きかけがあり、持氏の遺児成氏が新たな鎌倉公方に就任。鎌倉府は一旦再興された。しかし、なおも続く関東での諸々の火種により、成氏は鎌倉を離れて下総古河に移った。ゆえにこれより先は「古河公方」と呼ばれる。
「関東での諸々」は、著名な歴史小説作家諸氏の手にかかれば、瞬く間にベストセラー本が何冊もできるほどの題材の宝庫である。恐らくそれらを題材にした著作は既に多数あるのでは? しかし、しがない趣味物書きの駄文の中で、下手くそに箇条書きにしてみたところで意味不明なだけである。取り敢えず、遠く西国の新介や武護には関係ないので、「どこそこ公方」という名称だけ押さえて置けば十分と思う。
 さて、この「古河公方」足利成氏であるが、その後またも幕府と対立し、更には関東でなおもあれこれの争乱を引き起こしたから、もはや京の将軍様にとっては邪魔物でしかなくなった。将軍・義政はここで、異母兄の天龍寺香厳院主・清久を還俗させ、幕府公認の新たな「鎌倉公方」として関東に送り込むことに決めた。政知の「政」の字は還俗に際して、義政より賜ったものである。だが、残念なことに、「古河公方」成氏の勢力は強大であり、政知は鎌倉に辿り着くことすら出来なかった。ゆえにそのまま手前の伊豆堀越の地に留まり、「堀越公方」となっているのだ。

 思うに、この古河公方云々がなければ、義政が身勝手な「隠居」騒ぎを起こした時、「身代わり」の次期将軍候補として頭に浮かんだのは兄の香厳院主・清久のほうであったかも知れない。そうなっていたら、その後のあれこれの出来事も全く違うものとなっていたであろう。そんなことを考え始めたら、もしも義政の兄が病弱ではなく天寿を全うしたら義政は将軍職に就くこともなかったわけで、そもそも、彼らの父・義教が自らの命を狙う赤松家の連中が開いた酒宴にのこのこと出向いていくことがなかったならば、あるいは今頃……。
 でも、恐らくは、選ばなかったほうの道へ進んでいた可能性は「絶対に」ないのだ。未来の人間の目から見ると、時に、これはこうなる定めであったのだ、と妙に納得してしまうことがある。何もかもが「必然」であり、歴史にifなどあり得ない、と感じてしまう。実に不可思議なものである。だからこそ、歴史というのは面白いのだ。

 さて、そう考えると、足利義材が将軍の座に就くことも、神ならざる手によって動かされている歴史の必然であったのだろう。
 細川政元が如何に頑張って香厳院清晃を次期将軍に推そうとも、前将軍の父にして、先々代の将軍である義政、そして、前将軍の母である日野富子の意見には逆らえなかった。なぜなら、義材の母は富子の実の妹だったのだ。つまり、義煕と義材とは両親ともに兄弟姉妹である。義政・富子夫妻にとって、より血縁の濃い甥として、義材を後継者に推すのは至極当然のことであった。