幕府は守護大名による合議制である。何もかも「話し合い」で穏便に解決する仕組みであり、そもそも強力な軍事力を持たない。奉公衆と呼ばれる直属部隊はあったが、やはり大内家のような有力守護の力を借りねばならない状態。よって、事あれば、配下の幕閣や守護達に頼らざるを得ないが、幕閣と言えばそのほとんどが、細川家代々の当主に見られるような風流に長けた文化人が多く、ほとほと軍事的には役に立たない。せいぜいその政治的手腕によって様々な裏工作を行い、内側から敵を崩していくくらいである。
 一方、守護達にいたっては、そもそもは「在京」することを旨としていたのであるが、自らの分国を離れようとせず、がっちりと支配国を強化している者も少なくなかった。大内家も同様で、在京したか、しなかったかは当主によって異なる。先の持世などは、あまり在京しなかった当主であったから、嘉吉の乱の際、偶然にも将軍と共にあったのは、まさに悲劇というよりほかない。
 持世の跡を継いだのは養嗣子となっていた盛見の子・教弘。そう、亀童丸の祖父である。こんなことを言うのもなんだが、数々のお家騒動がなかった、あるいはまったく別の結末をむかえていたとしたならば、祖父が当主となる事も、その後父・政弘から亀童丸へと家督が継がれていくこともなかったかもしれないのである。

 さて、その後の幕府の動向であるが、いきなり暗殺された義教には成人した跡継ぎがいなかった。足利家本体のほうは、家督相続の争いが起こることを避けるため、世継ぎ以外の子はすべて僧籍に入ることが定められていた。だが、義教の場合、例外として、嫡男の義勝のほかに義政も屋敷内で養っていた。なぜなら、この嫡男があまりにも病弱で、もしものことがあれば、という不安が付きまとったためである。予想通り、嫡男は早逝し義政が家督に就いた。しかし、まだ僅かに八歳であったため、管領その他のサポートは必須であった。
 しかし、どうもこの義政という人物は政治にはあまり関心がなく、風雅の道に傾倒した。無論、何もかもが取り巻き連中の意のままに動かされる政など、面白いどころか楽しくもなかったのであろう。そのせいか、早々に「隠居」することを思いつき、後は心置きなく風雅の道を歩もうと望んだ。だが、残念なことに、娘はいたが息子がいない。そのため、弟の義視に後を託すことにした。
 当然のことながら、義視は僧籍にあり、義尋と名乗っていた。「将軍職」に就ける、となれば大手を振って飛びつきそうな話のように思えるが、事はそう簡単ではない。なぜなら、兄・義政はまだ隠居する程の老人ではなく、正室の日野富子も二十五歳という若さである。当然、この先息子が出来る可能性は否定できない。もしも、そうなれば、当然実子に後を継がせたいと望むのが親心である。義尋はそれを思い、この話に難色を示した。
 しかしながら、義政はとにかく一日も早く将軍職をおりたいのだと言い、細川勝元までやってきて、全力で義視の将軍職就任を援護すると確約した。義政にいたっては、今後もしも実子が生まれようとも、その子は僧籍に入れ、決して世継ぎに据えることはないとまで誓った。こうして、義視は漸く重い腰をあげたのであるが……。
 何という事か、その直後、本当に富子が男児を出生した。義政や細川勝元は、なおも義視の将軍後継は揺るがないと言いつつも、結局待てど暮らせどいつまでも引継ぎの話は実行されなかった。どうやら富子が渋っているようであった。更に、細川勝元が義視を推していると知った富子は、山名宗全を味方に引き入れ我が子が将軍職に就けるよう、力を貸して欲しいと頼み込む始末。
 義視は富子らにとって完全な邪魔者となり、身の危険を感じた。そうこうするうち、応仁の乱が勃発してしまう。細川勝元はこの小競り合いにおいて義視を主将の座に据えることで、「箔」を付けようとした。義視としても山名宗全が富子とその子を推していることを聞き知っていたし、自らも「後継者」に相応しい功績が欲しい。よって、ここまでは良かった。しかし、その後状況はますます複雑化していったのである。
 どうでもいい小競り合いと思われたものが十余年に及ぶ大乱となってしまったことは既に述べたとおりであるが、問題は東西両陣営の組み分けであった。細川勝元は将軍義政の傍近くにあったから、御所と将軍を自らの陣営ということにして、大義名分を掲げた。後には天皇も御所に逃れたから、権威の象徴はすべて細川方に取り込まれるかたちとなった。義政本人は両家の争いに巻き込まないで欲しいと強く望んでいたにも関わらず、おのずと引き込まれてしまったのである。
 義視はこのときもまだ東軍・細川側にあった。兄の義政が東軍に担ぎ上げられているし、自らも主将などというものになってしまったのだから仕方がない。ここで、おかしなことになったのは、元々山名宗全に我が子の行く末を頼んでいた日野富子までも、御所の中に住んでいるという理由で、我が子共々細川勝元の下につく形になってしまったことであった。