陶武護イメージ画像
 応永六年(1399)九月、客星が南方に現れた。陰陽頭・阿倍有世はこれを凶兆と危ぶみ、三月以内に大きな反乱が起こり、それは九十日続くであろう、と占ったが、人々はこの太平の世にそんなことがおこるはずがあろうか、と思った。しかし、なるほどその後、大内義弘の反乱が起こったのである。
 『応永記』。別名『大内義弘討伐記』。応永年代に起こった大内義弘の反乱について記した書物である。その作者や成立年代は不明だが、事件の後直ぐに書かれたらしいので、それより百年近く後を生きる亀童丸や鶴寿丸らの手元にあったとしても何ら不思議はない。

 かつて将軍・義満の下で忠節を尽くした大内義弘は「弱い者は罪が少なくても御不審をこうむって面目を失い、強い者は、上意に背いてもそのままにさしおかれる」とその不公平な待遇を憂えていたが、遂には将軍家に物申すために兵を挙げた。武勇に鳴らした義弘は将軍の在り方に不満を持つ面々に声をかけ、反旗を翻したものの反乱は失敗に終わり、領国を遠く離れた堺の地で華々しく戦死した。

 室町幕府では「三管領・四職」と呼ばれる要職があり、管領には斯波氏、畠山氏、細川氏の三氏から、侍所頭人には山名氏、一色氏、赤松氏、京極氏のいずれかが任命されると決まっていた。大内家はこれら四職に任命される山名氏らとともに、三管領に継ぐ御相伴衆として名を連ねており、周防・長門・豊前・筑前の守護職を世襲することが認められていたのであるが、やはり上位の七つの家系に比べれば劣る。当然、重鎮の座に就くこともできない。
 常に功績のわりには報酬が少ない上、上記の名門らの嫌がらせも酷いから、義弘も不遇をかこっていたに相違ない。
 二人は密かに書物を回し読みしながら、義弘の武勇に優れたる場面を諳んじては先祖の威容に思いを馳せるのであった。武護が亡き父を思い出していたのは言うまでもないし、亀童丸のほうでは、応仁の乱での父の活躍を想像したのである。

「南朝に北朝、西軍に東軍……訳がわかりませんね」
 軍記物の類いを好んで読む武護も、実際に戦に出たことはまだないし、あれらの指南役の老臣が来ては語っていく、つまらないお家の歴史を何度聞かされたところで、さっぱりだ。まあ、それは亀童丸も似たようなものだった。
 大内義弘の反乱は南北朝の合体後。そして亀童丸の父と鶴寿丸の祖父とが京で従軍していたのは応仁の乱であったが、どちらにしても誰と誰が手を組んだ、そして今度は誰が誰を裏切った、と訳が分らない。さらにややこしい事には、同族同士で敵味方になっていたりするから、ますます混乱した。
 しかし彼らの一族とて、悲しい事にそれらの訳の分らない連中と大差ない道を歩んで来ていたのであった。
 初代将軍・足利尊氏が弟の義直、子の義冬と争った観応の擾乱の頃、彼らの先祖大内弘幸・弘世父子は南朝及び足利義冬側に味方した。というよりも厳密に言えば、念願の長門進出を目指すには、幕府から長門の守護職を与えられていた厚東氏が邪魔だったからだ。一方で、多々良姓の中でも代々激しい惣領家争いが繰り広げられており、幕府から周防の守護職を与えられていたのは当時の惣領家・鷲頭家であった。その後、弘世父子は漸く念願かなって鷲頭家から惣領家の地位を奪い取ると、早速南朝から周防の守護職を認めてもらった。そして、幕府側と義冬側とで一族が分裂し、弱体化していた厚東氏を打ち破ると、長門の守護職をも手に入れた。更に、九州においても義冬側として大いに戦功を上げたのである。
 だが、後には周防・長門の守護職を認めて貰うという条件で、北朝・尊氏側に降った。このように、大内家は将軍取り巻きが要職を独占し、その恩恵に預かっていたのとは違い、自らの「実力」で守護職を手に入れた。その意味では、名実ともに、周防・長門の真の支配者であった。
 だが、これら一連の行動を見るに、どうやら彼らの先祖たちも誰かに「忠義を尽くす」などというよりは、自らの私利私欲のため、つまり、周防・長門の支配権を幕府という公的機関に認めてもらうために工作したかのように見える。
 また、戦略的に優位に立てるのであれば、一時的でもその反対勢力と手を組み、用が済めば平気で手を切る。この場合は、足利義冬との関係がそれで、大内家の軍事力を頼みとしていた義冬が、その離脱によって大きな損害を被り、密かにそれを恨みに思ったことは想像に難くない。
 実際、欲しいものを全て手に入れた後、弘幸の後を継いだ弘世はあまり幕府に協力的ではなかった。幕府はその後も九州で続いた義冬派による騒乱を抑えるのに手を焼いたのだが、再三の協力要請にも積極的に動く様子はなく、むしろその矛先を安芸や石見に向けたのであった。