陶弘護イメージ画像
 女達が子らを連れて御前を退出したのに合わせ、主従は場所を変え、二人きりで飲み始めた。他の客人たちは既に無礼講を経て、白河夜船となっている者もいた。
 先ほどの政弘の言葉を継いで、弘護が言った。

「何を仰せで。まだまだ仕事盛りのお年頃。これより、若子様の下にもいくらでも御子ができましょう。あれらの京の連中など皆、早々に養子を迎えた後で自らに子が出来、ややこしいことになったではございませぬか」

 まさにその通り。そもそも、細川と山名の争いも元をただせば、畠山家の家督争いでそれぞれが別々の者を支持したことによって始まった。養子と後から出来た実子の間の争いだった。その後、東西に分かれて拡大する戦線で、同じ家の者どうしが似たような内部抗争の挙げ句、それぞれが別々の陣営についた。
 そう、自分に対立する者がいないほうにつく、という至極単純な理由だ。元々同族内で争っているからそうなるのであって、同姓の者がそれぞれの陣営に入り乱れているのはそのためだ。他ならぬ大内の家でも、伯父・教幸が謀反したではないか。

 最後はもう、誰が何のために戦っているのかすら分らなくなった。大切なのは、「敗北」することで不利益を被ることだけだったから、戦うのに飽きた京の連中がそそくさと和睦した後も、政弘は軍を引かなかった。しかし、失うものは何もないとの確約を取り付けた後、漸く重い腰をあげたのである。

 気の毒な畠山義就は最後まで戦い抜く覚悟であったが、政弘にはもはや、これ以上の滞在は限界であった。地方の守護達には分国があり、それをかくも長きに渡り放置しておくことは問題である。それに……。国許には気掛かりな事があったのだ。もう一つ、重大な。

「そうか、まだ早いか。だが、わしはもう疲れた。幸い後を継ぐ者もできたことであるし、ここは楽隠居といきたいものだが」

「それではまるで、あれらの無能な将軍家と同じです。幼い跡継ぎを当主の座に就けて、ご自分は書画だ連歌だと興じなさるおつもりで? 御館様がそれらの才にも長けておられることは存じ上げておりますが。武家の棟梁たる者が武芸を忘れ、公家のような暮らしをしておるから、つまらぬ家督相続の争い一つ満足に解決できず、あのようなややこしいことになったのです」

 弘護は前将軍・義政が応仁の乱の最中に、僅か九歳の義尚に将軍職を譲ったことを言っているのだろう。確かに文化人としての教養のほうが目に付くが、将軍は将軍だ。そもそも九歳の子供に何が出来ると言うのだ? 隠居など名ばかりで実権は今なお義政にある。だが……。

「そうだな。そなたの目には、わしも無能に映るのであろう?」

「は?」

 弘護は一瞬言葉に詰まった。その目の前に、政弘は懐中から取り出した書状を突き出した。弘護が恭しくそれを受け取ると、何と自らが在京中の主の側近に宛てたものであった。何のことはない、教幸の反乱に際して、国許での合戦次第について書き送ったものである。

 ただし、政弘が気になるのは、最後の一文であったらしい。

――御館様にはご帰国なさるのなら今より他ないかと。この期を逃せばこの先どうなろうとも、国許のことは分りませぬ

 と記されている。その後、弘護を筆頭に在国被官の面々が判を連ねてあった。