
大内家最後の当主。
彼を、謀反人たちがたてた「傀儡」として数に入れなければ、大内義隆が最後の当主となる。
近藤清石先生の『実録』などでは、「反逆」の項目に入っていて、気の毒なお人ではある。
反義隆派家臣たちが連れて来た傀儡当主 大内義長
大内というより、大友の血縁。元々この人は「大友晴英」である。
ただし、心情的に「叛徒」たちが擁立した「お飾りの」当主を容認できなかったとしても、史実では彼こそが、ホンモノの最後の当主だ。
陶晴賢や大寧寺についてはここでは話題にしない。
ただ、この時代はまだ「室町時代」であって、織田なにがしらの戦国時代ではない(世間一般には応仁の乱が戦国時代の始まりであったり、いや、明応の政変後だ、という新説もでたりしているが、足利将軍が存在する限り、室町は続いているものとする。ここはアカデミックな空間ではない。念のため)。
運命を変えた政変
室町時代の守護たちと幕府・将軍家の関係として、「己の立場を認めてくれる唯一の公の機関」こそが幕府である。将軍の側としても、それらの守護たち、家臣たちの地位を認めてやることに存在意義を認め、国家の秩序は保たれていた。
将軍様のお墨付きをもらえなけらば、たとえ、正統な跡継ぎであっても逆賊となり、「討伐対象」となり得る。だが、お墨付きさえあれば、これはまごうことなき、正統な当主なのである。
長い歴史の中では、直系の跡継ぎが家臣たちから総スカンを喰らい、追い出されたり、力の強い重臣に頭が上がらず、意に染まぬ身内を跡継ぎにせざるを得ない哀れな当主も存在した。ここには、単なる性格の不一致による好き嫌いの問題もあれば、家臣間の対立だったり、身内内部の血みどろの抗争だったり諸々のケースがあった。
だが、最終的には、それらを解決し、交通整理をするのは将軍の役割である。
将軍からOKをもらえれば、それまでのあれこれはなかったことにしてよい。
大内義隆の死を気の毒に思う心優しい人たちにとっては、大内義長は単なる叛徒が擁立した傀儡だが、将軍のお墨付きは出ているので、れっきとした守護であり、当主なのだ。
その意味で、大寧寺も、その他の、例えば、畠山や斯波といった応仁の乱のきっかけとなった他家のお家騒動となんら変わらない。陶晴賢および彼に賛同した重臣たちは、義隆を主に据えておくのは問題がある人物、と判断し、お家のためにより相応しい跡継ぎに変更したに過ぎない。
唯一のスペア
大友晴英は、大内義興の孫だから、紛れもなく身内である。
本来ならば、大内姓の身内がいればなおよかったが、もっとも「マシ」で適当な人物が彼だったのだ。
のちに、大内家滅亡後に、大内輝弘の乱というのを起こした大内高弘の遺児は、大内義興の甥。れっきとした大内姓ではあるが、義興の代に、父親が謀叛しているから、不適切だった。
そもそも、この人物、大友家の世話になっていたから、同じ大国の当主にすえるなら、こんな人物より、実の弟である晴英を送り込むほうが大友家としても嬉しい。
そして、実際に、従兄弟よりは、甥のほうが、先の当主・義隆からみてもより近しく、過去には「猶子」としていた時期もあったくらいなのだ。
本人のやる気とは裏腹。完全なる傀儡
政変の首謀者・陶晴賢らは、晴英を迎えるにあたって、琳聖太子の故事に習い、多々良浜から上陸し、さらに、二月会でおこもりまでやるという念の入れよう。
必要不可欠なイベントをすべてこなし、関係ある寺社への参拝をすませた晴英はやっとこさ山口の政庁にはいり、当主の席に座った。
彼自身は、大内家の養子にはいることをどう考えていたのだろうか?
むろん、当人に確認する術はないのだが。
研究者の中には、そこそこやる気満々であったという説がある。
なかなか子宝に恵まれなかった義隆はいざというときの保険として、姉の子である晴持(一条家の息子)を養子として寵愛していた。そして、おなじく、姉の子である晴英も猶子にしていた時期があったのだ。ただ。晴持は戦死したし、晴英との猶子関係は一方的に解消されてしまっていた。
実子ができたのだから、当然と言えばそうだろう。いつまでも放置しておいたところで、足利義政と義視や、畠山義就と政長のようなことになってしまう。
だが、晴英にとってはあまり気分のよいものではない。叔父から、万が一の時はお前に、と養子縁組してもらっていたというのに(まあ、猶子だから、取り敢えず相続などには関係がない。晴持が正式な養子となって気に入られていたから、まあそうだろう。保険のさらに保険だ……。)。
ところが、そこへ、大寧寺というとんでもない事件が起こった。叔父上が命を落とされるなんて、そんな……と悲しみに暮れることはあまりなかったのではないか、と思う。
どっちみち、彼は「大友家の人間だ」。大内なんてどうでもいい。むしろ、邪魔でしかない。
ただし、そこへ、当主として入ってすべて自分のものにしてしまおう、となれば話は別だ。
典拠はないが、当主である兄は、晴賢らの傀儡にされるだけだから、行かなくて良い、と止めたらしい。だが、晴英は、兄の忠告を蹴飛ばして自らの意思で周防に向かったのである。
ついてみれば、たしかに、やることは「何もなかった」。
だがそれでも、国政を動かしている重臣たちから見たら、晴英は「絶対に存在していてくれなければならない大切な人」だった。
重臣たちと意見が合わない面倒な殿様、あまりにも無能で、国をダメにしてしまいかねない殿様だと、幕府の介入もあり得るし、即刻手を打たねばならない(多分、義隆は前者にあたる)。だが、殿様なしで国を維持していくことはできないから、将軍様から認めてもらった晴英の存在が彼らのよりどころなのだ。
その意味で、大国の主をやってみたかった晴英ととにかく、替え玉が必要だった重臣たちの関係は良好だった。
ただし、重臣同士の意見の不一致もまたあり、大寧寺に賛同しなかったか、あるいは、見て見ぬふりを決め込んでいた者たちとは軋轢が生じた。
それらの反発と、また、力をつけつつあった、周辺の国人領主(特に毛利家)との対立とが、後の厳島や防長経略の悲劇へと雪崩落ちて行った……。
置き去りになった当主
晴英あらため、大内義長は、大寧寺組重臣たちの擁立あっての存在。
厳島の敗戦で彼らの勢力が瓦解した後は、名ばかりの当主が治めるかれの王国は、倒壊する以外に道がなかった。
毛利元就にいいようにぶち壊された周防長門国では、この侵略者にとっとと寝返る者が多数あった。それだけ大寧寺組が嫌われていたということだろう。
大友晴英として生きていたら、彼の人生はまったく違うものとなっていたはず。
それが、より満たされたものであったかはわからないが。
傀儡当主なんてやめておけ、と言ってくれた兄は、毛利家に潰される弟の国を助けてくれなかったばかりか、命まで取られるのを見て見ぬふりをした。
もちろん、相手はあの毛利元就だから、手出ししたくてもできなかったのかもしれないが。
その後、九州を舞台に、毛利家と大友家の全面対決が始まるが、すくなくとも、大内家滅亡の時点では、両者は互いに干渉しなかった。
国と国との利害関係というのは、本当に嫌らしい。当主の弟を見殺しにして、大内という大国が毛利なんぞに飲み込まれていくのを放置した大友家も、毛利家が九州の地まで進出してくるのは許さなかった。
毛利家の「策」
しつこいようだが、媚を売るでもなく、毛利家の人に恨みはない。ただし、義長の死に関しては、毛利側はちょっとズルい手を使っている。
高嶺城を棄てた義長らは、長門・且山城に逃げ込んだが、ここがそこそこ堅固。それに、さすがに大内家にも最後の意地というものはある。亀のようにこの城に籠っておられたら面倒なことこの上ない。
無論、敵はここが最後の砦と踏ん張ってはいたが、もはや風前の灯火である。ただ糧も尽きて自然消滅するのを「待っていれば」良かった。しかし、この待っている時間というのも時に煩わしいものだ。
そこで、籠っている義長を外に引きずり出してしまおうと考えた。
主君である義隆公を手にかけた陶らと与した内藤隆世は重罪人だが、彼らに「傀儡」として担ぎ上げられただけの義長は不憫である。よって、内藤の死をもって、義長の命だけは助けよう、というのである。
内藤隆世は陶晴賢の義弟(妻の弟)。当然、大寧寺では晴賢派であった。ただし、厳島にはいかなかったので、無事に義長の側近として生き残っていたのである。内藤は義長の制止を振り切って、彼のために命を捨てると言い張って自害した。
その後、義長は且山城から出てきた。毛利のインチキを信じていたのかどうかは意見が分かれるところだが。その後、付近の寺院に居を移すが、毛利家では最初から義長を許すつもりなどかけらもなく、強引にその腹を斬らせたのである。
これは元就というより、家臣の発案とされるが、最後の最後にこんなみっともないことをする必要もなかったのに、と残念である。大内側にしても、毛利側にしても。
もちろん、これすらも、数ある言い伝えの一つ。どうとるかは歴史家ではないので、好みで選択して構わない。
最後の当主亡き後
大内という大国が消えたことで、中国の毛利、九州の大友という家が化け物と化していく。
その、大友家最大の領国を築いたのが、キリシタン大名として著名な大友宗麟。
そして、彼こそが、大内義長の兄である。
宗麟と義長の母親は同じであったとする説と、違うという説がある。もし、同じであるとするならば、大友宗麟は義興の孫である。
そういうアプローチがほぼゼロであることから、恐らく、二人は異母兄弟なのであろう。
九州で毛利家を散々な目に遭わせた時、宗麟の心に弟の仇討という感情があったのかどうか。ご本人と話ができるのであれば聞いてみたい。
リライト済の記事はコチラです ⇒ 大友晴英(大内義長)