人物説明

内藤氏 藤原道長の子孫・大内氏重臣の家なのに毛利家臣に

2022年3月26日

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内藤氏概説

先祖は藤原道長

起源を辿っていくと、望月の歌の御堂関白に至ります。ところが、『萩藩諸家系図』には、とても興味深い記述がございました。「道長の曽孫祐覚は、山伏となって諸国を遍歴して周防国末武庄に留まり」云々と。なんで、やんごとなきお方の末裔が、諸国遍歴なんてことになっておられるのでしょうか。世の中、かわった方も多いですし、信仰のためなのか、何らかの理由で官職に就けなかったのかは不明です。

祐覚は、末武庄主福井検校大中臣光忠という人の娘と結ばれ、生まれたのが盛遠です。盛遠が鳥羽天皇の御代に、内藤氏を賜わったことから、以降は内藤姓にて活躍します。

その後の内藤氏(大内氏麾下となる以前)

盛遠の孫・盛家は「内藤六」と名乗りました。源平合戦の時には、源範頼と戦ったりしました。その後、熊毛郡勝間村、尾張国浅井牧野両郷、伊予国成吉別府の地頭職に補せられます。

盛家四代の孫・時信は元応元年(1319)十月八日、尾張国浅井郷の半分を長子・盛兼に、半分を他の子息に譲ります。盛兼の祖母・仏心尼の前夫は弘中権正兼綱でしたが、祖父・有盛に再嫁。その子時信に前夫・兼綱の娘を娶せます。二人の間に生まれたのが、盛兼です。仏心尼の遺領の件で、盛兼と兼綱の子・宗像宗氏とが訴訟を起こす事態となり、小周防本郡を折半の上、東方は盛兼、西方は宗氏が地頭職となりました。この話は『大内氏史研究』にも詳しく書かれております。前夫とあるのは、亡くなったのか、それとも何らかの理由で離縁したものか不明です。再嫁した後も前夫の娘を息子の嫁に迎えるなどしているところから見るに、感情的な問題で別れたとは考えにくいような(まあ、この時代、そのような理由で別れるのが、今のように自由ではなかったと思いますが)。さらに、土地問題の火種を作ったのもこの祖母さまでして、小周防本郡の地頭職を、前夫の子・真珠丸(=宗氏)に譲ってしまったのです。そりゃ、盛兼はキレますよね。結局、周防守護の裁定で二人が折半することになったわけですが。施行状が残っているおかげで、このような事情が今に伝わるのです。

盛兼の子・盛秀は跡継がないまま早世。盛兼の弟・孫六盛信が宗家を継ぎます。正平五年(1350)二月、足利直冬は、小周防本郡東方地頭職を安富三郎直泰に下賜。跡継がないまま亡くなってしまったゆえに、闕所扱いされてしまったのでしょう。盛信の子・盛世は直冬に旧領安堵を願い出ました。内藤盛信は「直冬に対して忠節の者であった」(『大内氏史研究』)とありますから、土地問題は無事に解決したのでしょうか。

大内氏傘下に

その後、まさに南北朝の動乱期に入っていきます。盛信の後を継いだ盛世は、大内宗家の弘世と分家の鷲頭弘直との争いに際して、弘直に与します。一族の藤時は弘直弟・弘貞とともに、鷲頭荘に攻め込んで来た弘世と戦いますが、弘貞は戦死。合戦は弘世方の勝利に終わります。これ以後、鷲頭家は振るわなくなり、弘世が周防国の統一を果たすことになります。

内藤氏は、盛世の子・盛貞のときはじめて大内氏に仕えた、とされています。鷲頭家に与したことは数えず、あくまで完全に宗家の支配下となった時、という意味でしょうか。盛見代のことで、長門守護代となり、その所領は約八〇〇〇貫にもなっていたと。以後代々において、内藤氏は大内家中で重きをなすことになります。盛貞の曽孫・弘春の嫡男・興盛は大内義興に仕え長門守護代に、義興死後は義隆に仕えて軍評定衆となり、その娘は義隆の養女という身分で毛利元就の嫡男・隆元に嫁ぎました(=尾崎の局)。

「国難」時には叛乱者側に与する

天文二十年(1551)、家臣の叛乱が起き、主君・義隆は長門国深川の大寧寺で亡くなります。家老格の重臣、陶・内藤・杉といった人々が叛旗を翻したわけですが、内藤興盛については、傍観といった立ち位置だったというご研究が多いです。真相は闇ですが。興盛は高齢だったため、叛乱騒動ののち、ほどなくして亡くなってしまいます。嫡男はこれより先に戦死していましたので、嫡孫・隆世が跡を継ぐことになりますが、こちらは完全なる叛乱者側のシンパです。姉は陶に嫁いでいたため姻戚関係もありました。厳島には渡海せず、留守を守る立場となりましたから、敗戦後はこの人が大内義長を支えることになります。

結局、厳島では無様な敗戦。毛利家の防長侵略を食い止めることは叶わず、最後は主と運命をともにすることになります。

毛利家臣となりなおも続く

本来ならば、ここで万事休すといいたいところですが、隆世の跡は興盛の五男・隆春に家督がいきます。むろん、毛利家に仕えたからです。大内氏時代同様、長門守護代となったとありますので、大盤振る舞いです。ですが、考えてみてください。毛利隆元の正室は義隆の養女です。ちゃっかり、多々良姓を名乗っていますが、本来は内藤氏の女性です。ただ、完全に大内宗家と無関係かと言えば、それも微妙です。義隆の母は、内藤弘矩(後述)の娘。義隆にとっては、内藤家は母の実家です。

姉の嫁ぎ先、陶家に与した隆世と、それを苦々しい思いで見ていた隆元夫人の弟・隆春。同じ一族でも、その後の明暗はくっきりとわかれたのです。毛利になった後などどうでもいいことですが、すんなりといっていませんから、ちょっとだけ補足しておきます。

隆春には跡継がなかったのか、「宍戸左衛門尉元秀の次男修理太夫元盛」という人が継ぎました。なんと、大坂の陣とやら(1555以降どうでもいい)で、敗北した際、元盛という人は山城国で自害しています。天下人とやらになった徳川某により、目を付けられた元盛の子らも、呼び出されてあれこれ詰問された模様ですが、命ばかりは助かったようです。しかし、それでも安心できない毛利輝元は彼ら(兄のほうみたい)に死を命じ、内藤家を断絶させてしまいます。そこまで関東の田舎者を恐れるのか? しかし、ほとぼりが冷めたのち、孫の代にお家再興を遂げさせたようです。でもこれ、どっち道、隆春の跡を継いだのは宍戸という人たちなので、内藤家はとうに終わってます。血縁関係でもあったのでしょうが、興味ありません。

『萩藩諸家系図』に見る内藤氏

道長―頼高―覚祐―祐覚―遠盛―盛定―盛家―盛時―有盛―時信―盛兼―盛信―盛世―盛貞―盛貞―盛世―弘春―興盛―盛時―隆世―隆春―元盛(以下略)

盛兼―盛秀
盛世子―盛定、盛実⇒勝間田
盛定子―盛賀、盛貞
盛貞子―盛世、伊訓
盛世子―武盛、弘矩、弘春
弘春子―興盛、興種
興盛子―隆時、正朝、隆貞、女子、女子、弟法師、女子、隆春、女子、女子、元興、元種
隆時子―女子、隆世

遠盛 筑前守、従五位下、鳥羽院賜内藤氏、母大中臣光忠女
盛定 散位、左衛門尉、死去年月不知、妻法名慈妙尼
盛家 左衛門尉、預尾張国浅井牧野両郷、寛喜三辛卯年八月朔日死、七十三歳、母親慈妙尼、摂津守師茂女姓不知
盛時 肥後守、従五位上、建長六甲寅年正月十九日死、六十五歳
有盛 徳正丸、七郎、岩国小次郎、死去年月不知、法名覚阿、妻法名仏心前夫弘中権正兼綱法名白蓮
時信 孫六郎、肥後守、死去年月不知、法名生西、母仏心、妻弘中権正兼綱法名白蓮女
盛兼 弥六郎、肥後守、死去年月日行年不知、法名良覚、母弘中兼綱女、妻不知
盛秀 徳若丸、肥後守、死去年月不知、法名俊阿
盛信 勝間田・内藤、孫六、左近将監、肥後守、初勝間田肥前守婿養子後内藤嫡甥肥後守盛依依夭内藤本家相続、貞和六年庚寅年三月二十三日死行年不知、法名知覚、母同、妻勝間田備前守忠保女
盛世 徳益丸、肥後太郎、遠江守、明徳二年未年二月八日死行年不知、法名知陽、母勝間田備前守忠保女、妻不知
盛貞 肥後守、自是始而仕大内家、立盛見持世與大内家、凡所領八千貫、永享十年戊午四月十五日死八十一歳、法名智度清叟
盛実 勝間田、孫六、左近将監、備前守、本知住土井之内以在名号勝間田是勝間田之祖為内藤家臣
盛資 弾正忠、随大内盛見発向筑前国於深江盛見一所戦死、時永享三年辛亥六月二十八日、行年四十八歳、法名桂号月岩
盛貞 蔵人允、美濃守、享徳三甲戌年十一月八日於山口死、六十九歳、法名有貞実仲、妻沓屋氏女
盛世 大炊助、下野守、肥後守、応仁二戊子年十月朔日死、五十四歳、法名統宥寛岩、母沓屋氏女、妻不知
伊訓 河内守、避道頓乱於芸州而後走京随政弘、政弘公帰国日乞身去安田故郷エ連歌、死去年月行年不知、法名自牧鉄牛
武盛 中務丞、一旦雖請譲盛世、兵庫改走後世譲于弟弘矩、随大内教幸入道道頓居士石州行、爾来流落、死去年月日行年不知
弘矩 弥七、弾正忠、兄武盛之請譲、陶中務少輔武護依讒言大内政弘代於防州宮山息弘和一所生害、時明応四乙卯二月二十八日、五十歳
弘春 掃部頭、兄弘矩父子被誅而後従大内政弘、内藤本家相続、文亀二壬戌年十一月二十七日死、法名統昌桂蔭
興盛 彦太郎、弾正忠、左衛門尉、下野守、十五位下、天文二十二癸已十二月十四日(或晦日)死、行年六十三歳、法名西方寺殿法誉知覚、妻内藤肥後守弘矩女、後妻山内大和守直道女
興種 美濃守
隆時 左京大進、天文十辛丑年十二月十九日死、行年不知、母弘矩女、妻内藤治部少輔宗兼女
正朝 彦二郎、天文十辛丑年三月十九日討死、母同
隆貞 弥六、天文十六丁未年十二月二十四日死、母同
女子 問田某妻(大内義隆妾)、母同
女子 宍戸左衛門尉元秀妻、法名妙見、母同
弟法師 後号内藤弥二郎、於芸州権太郎橋討死、法名寿慶、母同
女子 毛利隆元公室、法名妙寿、母山内大和守直道女
隆春 初隆通、亦二郎、左衛門太夫、後本家相続、母同※
女子 和智越前守元郷妻、母同
女子 出羽民部大輔元実妻、母同
元興 山内、初隆通、又次郎、正左衛門、善右衛門尉、山内大和直通猶子、号林泉軒素遵、母同、妻門司上総守某女
元種 勝九郎、勝左衛門尉、母同
女子 陶尾張守晴賢妻
隆世 彦太郎、下野守、弾正忠、弘治三丁巳年四月二日於長州勝山城切腹、行年二十二歳、母益田宗兼女、妻不知
※隆春 初隆通、亦二郎、左衛門太夫、後号周竹、実興盛第八子、慶長五庚子年七月二十四日死、行年八十三歳、母山内大和守直道女、妻吉見大蔵大輔隆頼女、後妻原田氏家柄不知筑前住人之由、後妻家臣阿座上内蔵助盛豊女
(以下略)

何の情報もないのも困りますが、ゴチャゴチャ書かれているのも面倒です。

内藤氏有名人(大内氏時代の人限定)

内藤氏については、『大内氏実録』にも伝が立てられている方が多いです。伝がなくとも、お名前は頻出の方もおられ、大内氏家中での地位が知れるというものです。『実録』では「叛逆」巻、「帰順」巻などにそれぞれ分かれて記述されていましたが、そもそも、これらの分類方法にはあまり感心できません。真似る必要もないわけですし、ひとつにまとめました。

お一人で独立できそうな方が多いですが、取り敢えずは全員こちらに置いております。

内藤弘矩

政弘期の人。文明四年(1472)長門守護代となる。不思議なことに、『実録』に伝が立てられていないのはいいとして、『萩藩諸家系図』では言及すらない。この人物は、大内義隆の母親の父である。系図には「陶中務少輔武護依讒言大内政弘代於防州宮山息弘和一所生害」となっているが、この説は現在は古いものとされている。政弘から義興へと家督が動く直前、弘矩ら重臣たちは、義興ではなく、弟の興隆寺別当・大護院尊光をつぎの当主にしようという企みを抱いていた。

内藤弘矩は重臣たちの中でももっと発言力の大きい人物だったと思われる。ちょうど陶氏の当主が若くして刺殺されるという事件が起こり、遺児たちは幼かったなどの事情もあり、年齢的にも「重臣」には入れない。そこへ来て、政弘が病重く、若い義興に政務を託すような状態となっていた。間近に迫る代替わりで、自らの意のままに動く人物を当主に、という陰謀があったという研究がある。

弘矩が誅殺されたのは、武護の讒言などではなく、かかる不穏な企てが発覚したから。つまり、本来ならば、弘矩が家督継承者として繋がっていなければならない。しかし、内藤氏はこれを恥じたのか、家督の流れから外してしまっている。このような不忠者の娘が、よりにもよって父親を殺された主に嫁ぎ、唯一の跡継となる男児を産んだ。歴史の悪戯としか思えない。ただ、この娘が嫁いだ時期が、父親が殺される前だったのか、後だったのかは確たる史料がないらしい。ストーリーテラーの皆さまの腕の見せ所となっている。

内藤興盛★

内藤興盛については、『大内氏実録』に伝がある。おおよそ次のような内容である(原文文語文)

「幼名:彦太郎
弾正忠(系譜に左衛門尉)、下野守(系譜、天文十五年)

興盛は盛貞の孫・下野守盛世の第三子掃部頭弘春の嫡男である。義興に仕え、文亀三年に長門国守護代となった。

永正四年、義興に従い、京師で戦った。

八年八月、船岡山の戦いで功があった。

大永四年、安芸に従軍した。

義興が薨じると、義隆に仕え、軍評定衆であった。

天文九年、義隆が安芸を攻撃し、興盛はこれに従った。

九月、陶隆房 とともに毛利氏を援けた。

天文十一年、義隆は出雲に軍を進めた。

天文十二年三月十四日、興盛は尼子氏月山城の管谷口で戦った。

五月、義隆は撤退し、尼子兵の追撃を受けた。興盛は陶隆房と殿戦(しんがり)し、陸路から山口に還った。

十七年、義隆が興盛の第三女を養女として毛利隆元の妻とした。興盛は大いに悦び、家人・永富盛詮及びその妹をつけておくり、船岡の戦いで己が被った甲胃を隆元に贈った。

隆元は久しく山口にあって興盛の人となりを知り、その娘を妻としてからは、ますます興盛を厚遇した。興盛もまた隆元が情け深いのを重んじ、また礼厚くもてなしてくれることに感動し、志は専ら毛利氏にあった。

隆房が叛逆して山 口を襲ったが、興盛は家に引きこもって出なかったから、義隆は使いをよこして頻りに出仕を催促した。義隆が法泉寺に入ったときき、興盛は隆房の陣に加った。隆房は叛こうとした時、まず杉重矩と興盛に連絡し、興盛は重矩とともにこれに 応じた。隆房がおそれていたのはただ興盛だけであったから、その勢いはますます強まった。興盛は隆房の仲間となったけれども、孫・隆世が隆房の妻の弟であることから、ひたすら隆房に加担しているのを不可としていさめた。隆世は聞き入れず、ついに仲違いした。

廿一年九月中旬、家人等は分裂するに至り、豊筑の者は専ら隆世に与みした。ほとんど兵を交えるほどになり、ようやく争いはおさまった。

廿二年七月、備後に軍を出し、十月、山口に還った。

廿三年、五月に亡くなった。享年六十一歳だった(系図は天文廿二年十二月晦日死去、六十三歳とする)。

興盛は落ち着いていて勇敢で、こころざしがあり、いささかもことに動じない人であった。
出雲から軍を返した時、陶隆房と轡を並べていたが、石州刺賀で隆房の家人・深野勘解由左衛門尉が不意に興盛の家人・南野内蔵を馬から斬り落とした。興盛はこれを見て悠々と馬から下り、隆房に問い質した。隆房はすぐに勘解由左衛門に切腹を命じて謝罪した。

妻は伯父・肥後守弘矩の娘。はやくに亡くなったので、山内直通の娘と再婚する。二人の妻との間に四男、四女があった。長男・左京大進隆時(天文十年十二月死亡)、次男・彦三郎正朝(天文十年三月十九日戦死)、三男・弥六隆貞 (天文十六年十二月死亡)、四男・弥二郎(戦死か否か不明)と、父に先立って亡くなった。五男・又次郎隆通。六男・元興は外祖父・直通の養子となり、山内善右衛門尉と称した。七男・元種は勝左衛門尉と称した。長女は義隆の妾となる。次女は宍戸元秀の妻、三女は毛利隆元の妻、四女は和智元実の妻 となった。」

系図からわかることは、あまりにも大量の子女がいること。さらに、嫡男から四男までもが、父より先に亡くなっている。長生きをしすぎると、それだけ多くの悲しい出来事に遭遇する確率が高くなる。まあ、六十代で亡くなっておられるので、さほど長寿とも言えないが。宍戸家との繋がりが深いことがわかるので、のちに内藤家の中身が宍戸家になってしまったのも頷ける。

二人も後妻を迎えているが、早世した子らの母はれいの、内藤弘矩の娘。尾崎の局や内藤隆春にはその血は流れていないが、隆世には流れている。でもそれによって、何らかの差別を受けた気配はまるでない。そもそも、謀叛人の娘が次の主の母親。このところ、常に異常に気になる。

内藤隆世★

『大内氏実録』に伝がある。「叛逆」巻に。じつは、上の興盛さんも同じく「叛逆」で、その付属のように記述がある。『実録』もすでに、「今は昔」の感があるし、そろそろ自分の言葉でまとめたいが時間がないので。とりあえず、場所だけ確保。およそ以下のような内容が記されている(原文文語文)。

「興盛の長男・左京大進隆時の子。義隆に仕え侍大将ならびに先手衆であった。姉が陶隆房の妻ととなった関係で、「国難」に際して陶方についた。厳島の戦い後は、大内義長政権のトップとなった。

幼名彦太郎、のち弾正忠となる(系譜に修理進の名があるがほかに所見なし)。内藤興盛の長男・左京大進隆時の子である。大内義隆に仕え、侍大将ならびに先手衆であった。隆房が義隆に叛いたとき、隆世は隆房の妻の弟だったので、隆房に加担した。このことから、祖父・興盛や叔父・隆通と仲違いした。

弘治元年十月、全薑(晴賢が出家したのちの名)が厳島に敗死すると、隆世が専ら大内義長を輔佐した。

十月七日、杉重輔が隆世の甥・陶長房を殺害する。長房の家人等は、その仇を討つことを隆世に相談し、隆世はこれをききいれた。⇒ 陶長房、杉重輔

二年三月二日、隆世は重輔の後河原の屋敷を襲撃し、隣屋に火を放った。おりから、風が激しく、山口の町は炎に包まれたので、大内義長は火災を避けて、今八幡宮に移った。重輔兄弟は囲みを衝て逃れ、今八幡宮に行き着いて義長にせまった。そこで飯田興秀、仁保隆慰が義長の命で隆世の陣営・古熊の西方寺に来て、重輔と和睦するよう言い聞かせた。隆世は聞き入れなかったが、興秀等は強引にまず人質を交換させた。隆世は弟・彦二郎(系譜には名前がない)及び楊井某を質とした。

三月三日、興秀等が来て和睦の相談をしたが、隆世はついに従わなかった。翌朝、杉方の人質・正重及び与力大野某を斬り、重輔が宿泊していた宝寿院を火攻にし、重輔兄弟主従七十余人を殺した。

三年三月、毛利氏の兵が都濃郡に進入し、若山城等が陥落したので、隆世は己が居城問田の姫山をすて、義長を奉じて高嶺城に入った。高嶺要害の工事はいまだに完了しておらず、既に兵糧も乏しくなっていたので長門国豊浦郡に逃れ、且山城にたてこもった。毛利兵が来て、城を囲んだ。

三月廿八日、且山城外墩が落ちる。

三月廿九日、二墩の兵二十余人が塀をこえて逃亡した。毛利兵はこれを見て城中の勢力が既につきたことを知ると、使者を寄こした。元就父子が義長について罪を問うことはないが、隆世には恨みがある。隆世が自殺するならば、義長を赦すだろう、と使者は言った。隆世はこの申し入れを承諾した。

四月三日、毛利兵から検使(取り調べの使い)として兼重弥三郎元宣が城内に来た。隆世は、義長にすすめて長福寺に入らせ、家人警固屋某を介錯とし切腹して死んだ(系譜には、二十二歳であったとするが、ほかに所見がない)。」

結局のところ、わずかに数行にまとめられるほどしか中身がない。姉の息子として、長房の敵討ちに専念していたことは義理堅くも優しい叔父と思えなくもないが、それこそ「国難」に際してそれどころでは……。ただし、この内輪揉めのあるなしにかかわらず、国の崩壊は止められなかったと思われる。いちおう、忠義の家臣と言える。

内藤隆春★

こちらは『大内氏実録』の「帰順」に記事がある。内藤隆世もこの人にとっては甥にあたると思われるが、1ミリも協力するつもりはなかった模様。そもそも、内藤家は叛乱家臣に同調しなければよかったのではないか。そう思いますが。まあ、この人は同調してませんよね。最初から、1ミリも。

『実録』にはおよそ以下のように書かれている(原文文語文)。

「内藤隆春、初名は隆通。幼字は又次郎。のち左衛門大夫と称す。下野守興盛の第九子で、母は備後の名門山名直通の娘である。

天文年中、陶尾張守、杉七郎とともに奉行三家老だった。

十七年、同胞の姉が義隆の養女となって、毛利隆元に嫁ぐ。こ れより隆春は父興盛とともに懇信を毛利氏に尽くした。国難の後、所領長門国厚東郡吉部の荒滝城に居住し、敢 て義長のために力を出さなかった。毛利氏が兵を挙げたとき、密かに内通した。

弘治三年、毛利氏は内藤弾正忠隆世の勢力 を除く為に、 隆春に内藤氏の家督を与えた。そこで隆世の勢力はとみに衰え、山口を守ることができず、義長を引き連れて豊浦郡に逃れた。 四月二日、隆世は且山城で死に、その翌日、 義長は長福寺で死んだ。

弘治三年十一月、隆春は山口に遊ぶ。
弘治三年十一月十一日、義長の残党・草庭越中守、小原加賀守等が義隆の遺児・問田亀鶴を奉じて、兵を挙げ障子岳にたてこもった。隆春は杉松千代丸とともにこれを撃ち、草庭越中守、小原加賀守を斬り、亀鶴をとらえて殺した。亀鶴は己の姉が産んだ子である。

弘治三年十二月二十日、長門国守護代となった。

晩年、剃髪して周竹と号した。

慶長五年七月廿四日死去。 享年八十三歳。子孫は繁栄し、数十家に分れて今につづいている。」

最後の「子孫は繁栄し」ということですが。中身変ってます。『萩藩諸家系図』で拝見した。数十の庶流があるということなので、むしろそちらのほうが、中身も内藤のままだったかも。ただし、『諸家系図』にはそんなに大量に内藤という人はいないため、名前が変っていたら、探しきれません。というより、恐らく、庶流は○○と書いてくださってあるのではないかと。

参照文献:『萩藩諸家系図』、『大内氏実録』、『大内氏史研究』

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五郎

古い研究だと、伯父上がワルモノにされてるよ(怒)

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宗景

都合の悪いところだけ批判してもダメだ。新しい研究の成果をわざと受け入れなかったりしているだろう?

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五郎

なんのこと? 俺は伯父上の名誉回復のために、周南市じゅうを掘り返して供養塔を探すよ。ん? 高野山にあるんだっけ?

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宗景

俺の眠りを妨げるな。墓などどうでもいい。

更新履歴:20250120 大幅にリライトした上、新しい資料(本)に目を通し、あちらこちらに散らばっていた内藤氏の記事を一箇所にまとめました。

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