陶弘房イメージ画像

五郎
周防守護代・中務少輔
父:陶盛政

 普通、先祖から書き始めるのではないの(゚ー゚*?)? と思いますが、ここは学術的なエリアではないですので、住人以外の方についてはさらりと流してしまいましょう。

 陶弘房さんは、弘護様のお父上。でもって、そのお子様である興房様が、隆房様のお父上、という関係上、我々の記述はここがスタート地点となります。

 最初に、昔は「家」というものがたいへん重要視されている時代でした。昔、と言いましたが、そんなに古い昔のことでもありません。今でこそ、戸籍はデジタル化処理が終了し、本人とその両親、兄弟などがボックス型の表形式で箇条書きになっているだけですが(当然既婚者であれば、配偶者、子どもなどの記述も)、一昔前までは、それこそ「系図」みたいに手書きだったんですよ。
 都会はとにかく、田舎のほうでは、男系の子孫が途絶えることを避けて、娘だけの場合、婿養子をとったり、娘すらない場合、親戚から連れて来たり……と、「系図」が途中で切れることを避けることがあったんです。
 まして、大昔ではなおのこと、であったろうとは容易に想像できますよね。
 さらに、もう一点付け加えますと、これもつい最近まで普通にあった(もしかしたら、大金持ちだの大企業の跡継ぎ問題などの発生している所なら今もそうかも。一般庶民とは無縁ですが……)ことですが、「家を継ぐのは長男」って考え方。
 これは、もっと詳細に見ていくと、必ずしも年長者って話ではなく、母親が正妻かどうかとかそういう問題も絡んできますので、そこらは割愛しますが、要するに、家を継げるのは選ばれた一人であり、選ばれなかった多数にとっては、なんの旨味もない、という世の中でした。
 であるからして、「だれが跡を継ぐか」って揉め事となり、時に血で血で洗う悲劇になったわけですよ。
 いっぽう。特に揉め事が起こらなかったとして、「跡を継げなかった」兄弟たちはどうなったか。「跡継ぎ」の配下となって、お仕えするんですよ。そのかわり、食うに困らないように最低限の面倒を見てもらえました。多少の土地などを分けてもらえるわけですね。
 ここまで理解してくださったものとして、いよいよ陶の家の話に入ります。

 多々良一族の中で、もっとも力を持つことになったのが大内家で(そこまでの過程はここでは割愛)、ここが先祖代々当主になっていたわけですが、勿論、跡を継げるのは常に一人。なので、配下にくだった人たちはほかに家をつくって分かれていくことになります。そうやって別れてできたなかに「右田」という家がありました。
 陶の家は、この右田家から更に別れた一族であります。
 陶家の始祖とされる弘賢さんは、この右田家の主・弘俊さんの弟でした。で、吉敷郡陶村というところを領地としため、地名をとって「陶」と名乗ったのです。
 この「地名を取って」っていうのも普通でして、大内家の他の傍流はもちろん、ほかの氏族、他家でもそうでした(全部がそうかどうかはしりませんがね)。
 弘賢さんの子・弘政さんの代には、都濃郡富田保というところに侈ってしまいましたので、せっかくのルーツとなった陶の地が本拠地であったのは、僅かに一代ってことになりますね。
 これは、富田のほうの陶氏館跡の説明看板から知りえた情報ですが、陶の地から富田に移ったのは、同じ多々良氏の鷲頭家を牽制するためであったということです。
 そして、陶一族といえば、たいていの方が、その館跡も、城跡も富田のほうを想像なさるので、なにやら陶の地のほうは影が薄くなっておりますね。しかし、字面的にはこちらも関係ある土地であることに気付かない方はおられぬでしょう。

 弘賢さんから、この弘房様に至るまでのことは、系図等にさらっと出ている程度です。
 弘政さんは越前権守に任じられ、その子息・弘長さんは尾張守に。この方は出家して、尾張守入道道琳と名乗りました。大内盛見さんの政権下で長門守護代となりました。
 弘長さんには実子がなかったようで、叔父・弘綱さんの三男を養子に迎えておられます(この辺り、そもそも史料があやふやらしく、『弘護賛』では盛長さんは養子ではなく、弘長さんのお子である、としています)。
 盛長さんは治部少輔、中務少輔となり、最初、養父(実父かもしれない)・弘長さんの下で小守護代を務めた後、守護代となりました。
 盛長さんのお子・盛政(幼名:徳房)さんは、お父上の跡を継いで、同じく長門守護代、のち越前守となりました。主である大内家の当主が持盛さんに代わった時、引き続き長門守護代でしたが、永享四年にいったん罷免されました。その後、当主が持世さんとなった時、周防守護代となり、これより先、陶家が代々この周防守護代職を世襲することになったようです。
 さて、盛政さんの長男として家を継いだのが弘正さんです。弘房さんは次男でした。
 長禄元年、一族の右田弘篤さんが陣没なさいましたが、跡継ぎがいませんでした。そこで、主君・教弘さんの命令で、弘房さんが右田家の跡を継ぎました。元々、陶の家は、この右田家から分かれたということは、上でみた通りです。系図が途絶えることは困りますから、もっとも近しい身内から養子を入れて存続させたのでしょう
 しかし、寛正六(1465)年八月二十六日、弘房さんのお兄さん、弘正さんが戦死してしまいました。この方にも実子がいなかったとみえ、今度は陶の家の系図が途絶える危機に瀕しました。
 一族は相談の上、右田家に入っていた弘房さんが戻って来て家を継くことを望みました。十一月一日、教弘さんを継いで主君となっていた政弘様は陶家からの願い出を許可したので、弘房さんは実家に戻ることになりました。
 となると、今度は右田の家のほうが、跡継ぎがなくなってしまいますので、それについては、弘房さんの二男に継がせる、ということで相談がまとまりました。
 陶姓に戻った弘房さんが、周防守護代になった年月については史料がないようです。そもそも、兄・弘正さんが周防守護代となった期日の記録すら残されていないものの、守護代であったことは疑いないので、弘房さんも兄上の跡を継いで守護代となったはずである、と『実録』に書いてありました。
 同じく、『実録』によれば、弘房さんはのち越前守に任じられ、筑前の事を司どったそうですが、その典拠は「瑠璃光寺牌」に、前筑州刺史との記述がある所以ですが、それが筑前守なのか、筑前守護なのか、守護代なのかの詳細はわからないそうです。
 応仁元(1466)年、弘房さんは政弘様に従って応仁・文明の乱に参軍。応仁二(1468)年十一月二十四日、軍営中で亡くなりました。(死亡した日にちについては十四日、二十四日の二つの説がありますが、『実録』は十四日を誤りとしています)相国寺合戦にて戦死したそうです。
 法名:文月道周。
 延徳四(1492)年、奥方様(仁保氏:右衛門大夫盛郷の娘、法名・華谷妙栄)は、夫の菩提を弔うために、領地吉敷郡仁保荘小高野に寺を建立し、念持仏であった薬師如来を本尊として保寧山瑠璃光寺と名づけその位牌を安置しました。
 寺伝(瑠璃光寺)には、この寺は、文明三(1471)年に建立され、安養寺といいましたが、明応元(1492)年、土地が狭いことを理由に隣山に移し、瑠璃光寺と名を改めたと記されています。『実録』はこれを誤りとし、この寺は最初から瑠璃光寺と号して安養寺とは別の寺であるとし、つぎのように記しています。
 「瑠璃光寺伝に上のような記述があるのは、思うに、この寺(瑠璃光寺)を建立するまでは、仁保氏は夫・弘房の位牌を(安養寺)に置いており、延徳四年(明応元年)、弘房の二十五回忌に当る年に、この寺を建立し、安養寺から位牌を移したのであろう。その後、安養寺自牧巷領等がこの寺の領地になったことで誤解が生じたのだろう。
 さて最初に建立された地は、寺伝にあるように狭かったため、隣山に移り、最終的に、元禄三年、現在の地・上宇野令村の香積寺の旧址に移ったのである。
 今、仁保には瑠璃光寺の跡といわれる場所が二カ所ある。」

参考にしたご本:近藤清石『大内家実録』親族・陶弘房
アイキャッチ:陶弘房
作画:ロン様

鶴寿丸鶴寿丸

父上に関する記述はこれだけなのか?

伊東愛伊東愛

す、すみません……。底本にそもそも僅かな記述しかない上、さらにそこからかなり要約したり、削っております……

 陶氏居館跡(周南市)の立て看板に、とても分かりやすい系図があったので、お借りしておきます(撮影管理人)。