上御霊社

久しぶりの更新だよ。
さて、上御霊社についてまとめて欲しい、って言ったんだけど、於児丸ときたら、何やら文学的にまとめてしまったよ……。

……。

まとめ記事は改めて書いてもらうとして……。

お気に召しませんでしたか?

文学作品は歴史とは違うからね。君の書いたものが文学作品と呼べるかどうかは別として。

……

しかし於児丸坊やのこのファザコンぶり……俺の知る限り、君の父上が京中の女房がぶっ倒れるほどの美男だったなんて記録、どこにもないよ( 一一)
まさか、うちの庭園の主に対抗するつもり? 下手すると成敗されちゃうかも。東軍なだけに

((+_+))……どうしたら?

うーーん。
『摩利支天の太刀』では、主が主役だから、上洛前に起こった上御霊社も上京も触れてないんだよね。ちょっと(かなり)改編して、あっちに入れるのも良いかもね。

💖
この話は史実に基づいた於児丸による「創作」であり、登場人物の性格付け、彼らが取った行動などは完全なる想像です。
追記:Dせんせいが誤字脱字や文法上の誤りを直してくださいました。せんせい、いつもありがとうございます(20210112)。

文正二年(1467)正月六日。京・畠山政長邸。
「なにゆえじゃ……」
明かりもつけない暗い部屋の中で、主の政長はふっとそう呟いた。
将軍・義政から管領職を罷免され、幕府内に彼の席はなくなった。何もかもが、青天の霹靂。
元旦には室町殿にて盛大に酒宴を執り行い、二日の将軍御成始めの準備も万端整えていたというのに、「御成の儀は中止する、暫く出仕することまかりならぬ」との仰せがあった。
これまで名門・畠山家の惣領として、遜色ない働きをしてきたつもりが、なにをこうまで「嫌われた」のか。まったく身に覚えのないことであった。
(なにもかもあやつのせい)
忘れたくとも、忘れられない、従兄・義就の精悍な姿が浮かんでは消えた。

畠山家の惣領だった伯父・畠山持国は子宝に恵まれなかった。ゆえに、弟の持富に跡を譲ることに決めた。「子宝に恵まれなかった」と言ったが、実際には違う。館内の身分ある室からは男児が生まれなかったものの、「外で」身分の卑しい女との間に子をなしていた。
父親は確かに名門の惣領だが、母親の血筋がそれでは、生まれてきた子も半分は「卑しい」。持国はその子どもを寺に預け、顧みることもなかったと聞かされていた。
しかし、やはり血は水よりも濃かったと見え、晩年に思いついてその子どもを引き取り、さらには、跡継ぎの座に据えるとまで言い出した。
これには多くの家臣が反対した。家中は長らく、弟の持富が世継ぎと思って過ごしてきた。持富には、弥三郎というれっきとした血筋正しい男児もいたし、兄の持国であれ、弟の持富であれ、立派に当主として務めてくれるのならそれでいいのだ。
そんなところに、「どこの馬の骨かもわからぬ」子どもがいきなり入り込んできて、「実子ゆえ正式に後を継がせる」と言われても……。ここはそれこそ青天の霹靂だったのだ。

元より、持国に忠誠を誓い、彼の意見にならなんでも従う者と、そうでない者、長らく「世継ぎ」と見なされていた持富とすでに誼を通じている者、家中も色々で、分裂して争うことになった。なかには血で血を洗う凄惨な出来事もあった。
やがて、持富が死に、弥三郎も若くして亡くなると、「実子か甥か」というこの争いは弥三郎の弟である政長に引き継がれた。

幕府の中はあれこれの力関係や駆け引きの世界。幼い弥三郎兄弟は、未だ大人の世界のあれこれを知らぬうちから、細川家の庇護の下に入った。同じく管領を務める家柄として、畠山と細川は同列。気まぐれな将軍・義政が義就を気に入り、弥三郎兄弟を差し置いて、家督を認めてしまったから、二人には生命の危険が迫った。そんな時に、手を差し伸べて守ってくれた細川家に身を任せるのは、至極当然のことであった。

(たとえなにがあろうとも、あのような卑しい男にこの家を継がせるわけにはいかぬ)
義就がしゃしゃり出てくるまでは、当主の地位にあったのはこの政長であった。元々、共に家督をあらそうような間柄であるから、身内とはいってもなんの感情もない。むしろ、身内であるがゆえに、憎らしい思いが倍増するのかもしれない。
他所の家の跡継ぎが身分卑しい者であったとしても、軽蔑しこそすれ、これほどの許しがたい思いは感じないであろう。しかし、自らが属する名門の血筋にあのような、卑しい女の産んだ者が入り込み、しかも、「惣領」の地位を狙うとは。政長には我慢ならなかった。

持国が存命であった頃。弟ではなく、実子を跡継ぎにする、と将軍家にお伺いを立て、了承された。どうやら、義政が義就の人柄を気に入ってのことであったらしい。
(あの血筋も定かでない者の、どこがお気に召したのか?)
理由は不明ながら、そういうことになった。行き場をなくした政長が、兄と共に細川家を頼っていた時、惣領の地位について、いい気になった義就はあれこれの不法行為を行った。あろうことか、将軍様の「下知」を偽造するなど、神をも恐れぬ行為を平然と繰り返したから、さすがの義政も切れてしまい、この不届き者を追放した。
(だから血筋の悪いものは駄目なのだ)
義就に代わって惣領家を認められた政長は、当然、こんなとんでもないことに手を染めるようなことはなく、何事もそつなくこなした。
これが「育ちの違い」というものだ。彼を推す者は皆、そう噂し合った。

京を追われた義就は暫く息を殺していた。吉野に身を隠していたとの噂であったが、政長は管領としての政務に謀殺され、気にも留めていなかった。この頃、伊勢貞親ら将軍側近と義就を追放することに成功し、政長のほか、京極持清らも味方につけた細川勝元が、文字通り幕政のナンバーワンであった。頼りとする勝元の地位が盤石なら、当然、政長も安全だ。

きな臭い風が流れた最初は、文正元年(1466)七月の斯波家の当主交代劇であった。これとても、側近らの意見に流された義政がその気まぐれで、斯波義廉を追い、義敏を当主に替えたに過ぎない。ただし、家督を追われた当人にとっては大問題なので、義廉は舅である山名宗全を頼りとし、宗全も婿のために、兵力を集め始めた。義就が兵を動かしたのは、この斯波家の当主交代劇の翌月のことであった。
義就は大和国から河内国に進出し、9月3日に烏帽子形城、7日に嶽山城を陥落させる。いうまでもなく、河内国は政長の領国である。政権内部で、後継者の地位を脅かすだけでなく、遂に、その領国をも侵すに及んだのだ。このような、義就の動きに目をつけたのが山名宗全だった。宗全は義就と結ぶことで勝元に対抗しようと考えたようである。
義就はさらに、大和国の布施氏・高田氏を攻め、大和国でも勢力を拡大させていく。
同じ年の12月25日、義就は一気果敢に入京すると千本釈迦堂(地蔵堂、大報恩寺)に布陣した。何を考えているのか分からぬが、目指すところはやはり惣領家の地位であることは想像するに難くない。
千本釈迦堂は宗全の念持仏である不動明王を祀る、山名家ゆかりの寺だ。義就の背後に宗全がいることは、もはや疑いもなかった。
翌1467年(文正2、3月改元、応仁1)正月2日、義就は宗全の口利きで将軍・義政に謁見し、5日には義政と足利義視を山名邸に招いて、諸将とともに正月を祝った。そう、本来ならば、御成始めがあったはずの日に、義政は室町殿で義就に会い、政長邸への御成が予定されていた五日には宗全邸を訪れたのだ。

そして今日この日(六日)、政長は管領職を解任され、義就に邸宅を明け渡すように命じられたのであった。さらに、新たに管領に就任したのは、宗全派の斯波義廉だった。
どういうわけか、それまで盤石と思われていた細川方の優位が一瞬にして崩壊したのである。