関連史跡案内

五の宮大明神跡地(山口市朝田)

五の宮大明神・全景2

山口県山口市朝田の五の宮大明神とは?

もと「周防国五の宮」です。現在、周防国五の宮は朝田神社であり、朝田の地にご鎮座しております。では「もと五の宮」とは何かといえば、大内氏の時代に信仰されていた当時の五の宮の「跡地」を指します。

明治時代以後、神社の統廃合が進み、参詣者の便宜をはかり複数の神社を一つにまとめるということが行なわれました。五の宮もその時に合祀され、現在は矢原の地に遷されて「朝田神社」として存続しております。

五の宮に参詣したい方は、朝田神社に向かわれればよく、こちらは「跡地」であり、神さまはおいでにならないため、あくまで大内氏時代の旧地を訪れてみたい方のための場所です。

五の宮大明神・基本情報

所在地 〒753-0871 山口市朝田 2153
(※Googlemap にあった住所です。)
旧周防五の宮「五の宮大明神」の跡地
御祭神は朝田神社に合祀されており、単なる「跡地」

五の宮大明神・歴史

凌雲寺さま(義興公)の五社詣で

明応六年(1497)、九州で火種が燻りその平定に奔走していた義興公は、戦勝祈願のために、周防国の五つの神社を参詣しました。

諸国の神社にはそれぞれ序列があり、最も格式が高いものは「一の宮」とされます。現在も旧国名を冠して一の宮を称している神社は全国にあるため、ご存じの方は多いかと。格式が高いというのは、要するに由緒ある神社ということです。延喜式神名帳に記されており云々などという神社があてはまることが多いです。何とびっくり神社には、「神階」という、役人における位階のようなランク付けがなされており、当然のことながら、ランクが高い神社ほど格式が高いといえます。ただし、すべての神社にランクがつけられていたわけではなく、それこそよほどの格式がある神社だけに授けられたといえます。

一の宮をどこと定める時、これらの格式が参考にされたのはいうまでもありません。律令制の時代には、国司が赴任すると、その国の著名な神社に奉幣を捧げて回りましたが、その時、一の宮、二の宮、三の宮……という順番に回ったといわれています。

なお、一の宮、二の宮……というのが、いくつまであるかは、その国によって違います。周防国には五の宮までございましたが、お隣長門国は二の宮まででした。

「○○(旧国名)国一の宮」と呼ばれることは、たいへんに名誉なことであるらしく、現在でも当神社こそが一の宮である、と複数の神社が名乗りをあげて争っているケースがあります。なぜ複数あり、揉めているかは、それぞれの国の歴史的事情にもよるのでしょう。

さて、周防国には一の宮から五の宮までが定められていました。国司が回った順番によって決められたのか? 違います。なんと、この国では、前述した凌雲寺さまの五社詣での際に、参詣した順番に一の宮、二の宮、三の宮……が定められたと伝えられています。

もちろん、当時の慣習ですでに神社の格式は定まっていたと考えられ、五社詣ではその順番に行なわれたものと思われます。よって、この際に元々の一の宮から五の宮までのランク付けが、当主の好みによって変えられてしまうようなことはなかったと感じますが、いかがなものでしょうか。

ちなみに、凌雲寺さまの五社詣での順序は以下の通りです(神社名は現在のもの)。

一、玉祖神社
二、出雲神社
三、仁壁神社
四、赤田神社
五、朝田神社

一番目の玉祖神社が防府市にあることを除けば、そのほかはすべて山口市内にございます。しかし、山口市は市町村合併で巨大化していますから、市内にあるのでコンパクトにまとまっているとは申せません。歩いて回ったらたいへんなことになります。

現在もこの時の五社詣でを真似て、すべてに参詣する方がおられると、地元の方にお伺いしました。でも、皆さんバイクで回ったり、自家用車を使ったりなさるそうです。歩いて回るのは至難の業と感じました。凌雲寺さまの五社詣では当然、一日で完結しているのですが、超高速でのご参詣だったかと。神さまにご無礼にならないほどの最低限の時間を取りつつ、すべてを回るのは、相当の強行軍であったことでしょう。

大内氏の五の宮大明神信仰

「○○大明神」というのは、尊称です。厳島神社を厳島大明神と呼び、篤く信仰していた人々と思いは同じです。では、一の宮から四の宮が五の宮ほどの崇敬を受けていなかったのかと問われれば、そうとは言い切れません。それらの神社が一の宮大明神のように呼ばれてはいなかったのかどうかについて、語っている研究はないため、なんとも言えません。ただし、話題になっているのを聞いたことがないので、その可能性は低そうです。

『山口県神社誌』によれば、凌雲寺さまの五社詣で(明応六年、1497)の二年後、明応八年(1499)の再建棟札が残されているそうです。ほかの当主さまとの関係はあまり聞いたことがありませんが、凌雲寺さまとはかなりご縁が深かったように思われます(創建年代は不明だそうです)。

現在の周防国五社のうち、一の宮から四の宮については、大内氏時代からの神社がそのまま存続しています。むろん、様々な神社が合祀されるような変化はあったと思われますし、社殿が再建されて当時のままではないなどの事情もあるでしょうが。

しかし、五の宮については完全に当時の面影は失われてしまっています。諸国の一の宮、二の宮……の数値が大きくなるほど、規模が小さく、地元密着型の神社となることはまったく同じです。一の宮は文字通り周防国一国を代表するような大規模で著名な神社です。ですが、五の宮ともなると、周防国一国というよりは、その下に位置する、今でいえば市や町や村を代表する神社くらいの規模となるでしょう。知名度もぐっと下がります。

そのためか、明治時代以降の小規模な神社の合併などの際に、ほかのいくつかの神社とまとめられることになりました。それについては、朝田神社のところで述べています。

朝田神社・楼門
朝田神社・周防国五の宮

明治時代に7つの神社を合祀してできた。大内氏時代の五の宮(五ノ宮大明神)もここに移されている。元の五の宮跡地も保存されており、どちらも参拝(跡地は『見学』)可。

続きを見る

あるいは、延喜式神明帳云々の神社ではなく、地域密着型の神社であったがゆえに、より親しみがわき、五の宮大明神などと呼ばれて、特別な存在となっていたのかもしれません。

五の宮大明神から朝田神社へ

複数の神社を一つにまとめるにあたり、本来ならば、由緒ある「五の宮」であった「五の宮大明神」にほかの神社が合祀されるのが最も適切であるように思えます。恐らく、合併当時には、五の宮大明神という呼称は使われなくなっており、ご鎮座地の地名を取って朝田神社と改名していたであろうと思われます(※『山口県神社誌』では、現在の朝田神社として合祀された神社として、朝田にあった旧郷社『五の宮大明神』と記してありました。朝田神社さまの案内看板では『旧郷社・朝田神社』となっています)。

この時の合併は七つもの神社を一つにまとめるという大合併だったので、それぞれの神社の関係者の方々、地元の方々は相当議論を重ねた上で決定を下されたようです。さらに、これだけの数の神社の神さまがたを合祀するのもたいへんな大事業ですから時間もかかりました。結局のところ、神社に参詣する方々の利便性を鑑みて、現在の矢原駅からほど近い場所に移転されたのです。

そのために、大内氏時代からのゆかりがある元五の宮大明神を離れることになるのは忍びなかったのでしょう(もちろん、それは、合祀によって消滅したほかの五つの神社さますべてに共通して言えます)。かつて、五の宮大明神が鎮座していた跡地は、そのまま残されることになったようです。「跡地」として、史跡のような扱いとなっております。

跡地には当時の名残を思わせる石塔などが転がっているほか、ここが由緒ある場所だったことを示す案内看板も建っています。その案内看板に、かつて五の宮大明神の鐘だったものが、現在神奈川県の神社にあることが記されており、そこに、その鐘は「国の重要文化財」となっている、とありました。さすが、大内氏の信仰を受けていた神社、鐘ひとつが国指定の重要文化財となるほどだったのか、と思うと同時に、それがなぜ、今は他県にあるのかが謎です。現在地の新生朝田神社にまとめられる際に、どうして貴重な鐘を移転させなかったのでしょうか。

まあ確かに、神仏習合していた時代を過ぎれば、神社に鐘はなく、寺院に鳥居はなくなるのが普通です。でも、全国見渡せば、神社に鐘があったり、寺院に鳥居があるといった、神仏習合時代の名残もゼロではないんです。ただ、朝田神社の場合は、ご鎮座地を遷しておりますので、その際に、寺院ではないので鐘は不要、となった可能性は大きいです。そう思っていましたが、じつは、朝田神社には『鐘つき堂』があります。だったらばなぜ、鐘を手放してしまったのが、本当に経緯が気になります。

五の宮大明神の鐘

この鐘のことが非常に気になったために、ちょっと調べてみました。案内看板には、「国の重要文化財として」と書かれており、記述が、「日本という国の重要な文化財である」という意味ならば、問題ございません。けれども、もしも、「国指定重要文化財」という意味だとすると、誠にご無礼ながら、印刷時に手違いがあったのかもしれません(前者の意味と思います)。この梵鐘は「国」指定文化財ではなく、正しくは神奈川「県」指定です。

看板によればこの鐘は現在、浄智寺(神奈川県鎌倉市)にあるとされています。しかし、浄智寺のHPなどを調べても、国指定重要文化財なる鐘はないのです。建長寺と円覚寺の鐘は国指定重要文化財となっており、その旨記載がございます。山口県や山口市同様、神奈川県や鎌倉市にも重要文化財の一覧は公示されておりますので、寺院さまがそうと書いておらずとも、重要文化財が存在するのなら、その事実は公開されています。

元五の宮大明神の鐘は、どうやら国ではなく、神奈川県の重要文化財に指定されているようです。県指定文化財としては、確かに浄智寺の鐘がございます。「保存されている」とあることから、鐘楼堂につり下げられている現役の鐘ではないと思われるため、寺院を参拝しても、目にすることは難しいでしょう。少なくとも寺院さまの HP には何のアナウンスもなく、保存されているものを見せていただけるのかどうかもわかりません。

神奈川県のホームページにきわめて簡略ながら解説が掲載されておりましたので、引用しておきます。これによれば、「暦応三年」の銘があるとのことですので、何と南北朝期のものということになります。

重要

寺院さま HP も含め、以下の「神奈川県指定重要文化財」の鐘が五の宮大明神跡地の鐘である、という記述は一切ありません。ゆえに、ほかにも浄智寺さま所蔵の鐘があり、それが五の宮大明神から伝えられたものであった場合、以下の引用はまったく別の鐘についてのものである可能性もございます。

なお、現状、国・神奈川県・鎌倉市含めて重要文化財指定を受けている「浄智寺の鐘」は一つしかありません。

神奈川県文化財目録 種別順(令和4年5月1日現在)(PDF:5,432KB)42 ページ(※原文は一覧表)
指定:県
分類:工芸
名称:銅鐘(浄智寺) どうしょう(じょうちじ)
数量:1口
指定年月日:S44.12.2
市町村:鎌倉市
所在:浄智寺
所有者:(山ノ内1402) 浄智寺
概要:室町時代(銘に暦応三年)。龍頭が鐘全体にくらべて小さく、かつ繊細な感じのする鐘である
出典:神奈川県の文化財(神奈川県ホームページ:https://www.pref.kanagawa.jp/index.html
https://www.pref.kanagawa.jp/docs/ar3/cnt/f70052/index.html

鎌倉市内指定文化財一覧(令和5年2月15日時点)工芸(PDF:237KB)23ページ(※原文は一覧表)
神奈川県指定
件名:銅鐘
員数:1口
指定年月日:昭44・12・2
所在地:山ノ内1402番地
所有者:浄智寺
出典:鎌倉市ホームページ(https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/
※トップページから「鎌倉市内指定文化財一覧」と検索してください。

どこが(国なのか県なのか)指定した文化財であるのかということよりも、遠く離れた関東地方まで、五の宮大明神の鐘が移っていった経緯のほうが非常に気になります。寺院さまに問い合せるほかないですが、現状難しいです。

五の宮大明神・みどころ

みどころといっても、廃墟ともいっていい空き地に、かつての名残を思わせる石塔などが転がっているだけです。ただし、周囲の美しい景観とあいまって、かつての栄華はどこへやらという哀愁漂う、非常に趣がある場所となっています。

五の宮大明神跡地(全景)

五の宮大明神・跡地全景

かなりの敷地があったことを思わせる広い削平地に、石塔などが置かれています。灯籠の一部分のようなものなどです。個々の石塔がいつ頃のものなのかは、はっきりしませんが、大内氏時代からのものと思われるようなものはなさそうです。貴重なものは、現在の朝田神社に運ばれた可能性もあります。

案内看板

五の宮大明神・案内看板

この看板がなかったら、なんか壊れた石塔がある……と通過するか、そもそもここまで訪れることはないでしょう。たいへんに有難く、貴重な看板です。

「五の宮(朝田神社) 跡

古く奈良時代から全国に神社が建てられ、国司は赴任すると護国豊穣の祈願を行いました。周防国の五の宮で、創立年代は不詳ですが、明応六年(一四九七)、大内義興が戦勝祈願のため訪れた記録があります。
ご神体は、明治四十二年(一九〇五)、他の地区にあったお社のご神体とともに現在の朝田神社に合祀されています。このお社にあった梵鐘には朝田氏子の什器と銘が打ってあり、 現在は鎌倉の浄智寺に国の重要文化財として保存されています。
平成二十三年三月
大歳史談会」
(看板説明文)

跡地の石塔類

五の宮大明神・跡地の石塔

近付いて目をこらして見ても、江戸時代よりは遡らないようなものばかりです。神社の御由緒からいって、こんなものではなかったと思われますが、参詣する方がいなくなれば、廃れていくのは当然ですね。かつての社殿などはどうなったのでしょうか。

神社の合祀は、地元の方々にとって非情な決断を迫られる出来事ですが、観光客にとっても同じです。心に寒風が痛い……。

五の宮大明神跡地周辺の風景

五の宮大明神・周辺の山々

ご覧のように、周囲は奥ゆかしい山々に囲まれています。この長閑な風景を見ているだけでも心洗われるのですが、逆にいえば、山の中に行かないと参詣できない場所にある、ということでもあります。タクシーを使えば造作ないだろうといわれればそれまでですが、交通費は安くありません。

地元の方々が、この場所を離れ、町中に近い現在の朝田神社の場所に新たな社殿を造ったのは当然とも思えます。参詣者のためを思っての決断だったのです。信心深い方々にとっては、神社参詣は毎日の日課かもしれません。それがこんな山のなかであったなら……。一過性の観光客でさえ、日が暮れたらちょっと寂しいかも……と思う場所ですから。

五の宮大明神(山口市朝田)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒753-0871 山口市朝田 2153 
※Googlemap にあった住所です。

アクセス

山口市内からタクシー利用。正直、車だと自由自在なんですが、歩くとなるとなかなかに難しい観光スポットというものが存在し、ここもそれに当てはまるかと。タクシー貸切りは非常に高額となり、覚悟が必要なのですが、現状歩いて行く行き方はご教授できません。再調査をお待ちくださいませ。

参考文献:『山口県神社誌』、『大内氏歴代当主とゆかりの地』、現地案内看板、神奈川県HP、鎌倉市HP

五の宮大明神(山口市朝田)について:まとめ & 感想

五の宮大明神(山口市朝田)・まとめ

  1. 周防国五の宮・朝田神社の旧地。現在は元の敷地(跡地)に、当時の面影を偲ばせる石塔類の残骸が散らばっているのみ
  2. 朝田神社は、明治時代にほかの六つの神社と合併し、現在地の矢原に遷されている
  3. 大内義興が明応年間に行なった「五社詣」の際には、神社はこの場所にあった。よって、その追体験を希望するならば、現在地ではなく、この地を訪れるのが正しい
  4. 大内氏は旧朝田神社を「五の宮大明神」と呼び、篤く信仰していたとされる
  5. 現地案内看板によれば、かつてこの地にあった梵鐘が、現在神奈川県で県の重要文化財指定を受けているという(看板では『国指定』とあるが、県指定に降格したか、国が誇る貴重な文化財という意味の記述かは不明)。確かに、看板に書かれた浄智寺に県指定文化財の鐘は存在するが、どのような経緯で他県に流れて行ったのかは不明。なお、該当する梵鐘は「保存」状態にあり、鐘楼堂で公開されるなどはしていないため、目にするには寺院との交渉が必要

明治時代までは、きちんと元の場所に存続していた五の宮大明神。跡地を見れば、それなりの敷地も、かつてここに神社があったことを想像させるに足る石灯籠の残骸なども残っており、なにゆえに移転したのかと思うと悲しいです。またひとつ、大内氏時代の史跡の消滅跡を目の当たりにしてしまいました。心に寒風が吹く中(十二月でとても寒かったんです)、周囲の景色の麗しさに胸が熱くなりました。

案内看板を立ててくださっていることから、この場所が宅地化されて消滅するようなさらなる悲劇はないと信じます。どこもそうですが、遙かに程経て後に、漸く後悔しても間に合わず……という感じですね。明治維新後に破壊された各地の近世城郭の天守閣が、戦後鉄筋コンクリートで復元されたとかと同じです。文化財としての価値が分からなかった時代は世界中がそんなものだと思います。

寺社の場合は、城郭とは違い、信仰の場所ですから、参詣者の便宜を考えることは極めて重要です。その意味では、朝田神社が現在地に移転したのは正しい選択だったと思います。神さまは分霊も合祀も自由自在です。どこでお参りしても皆さまの思いは通じますし、社殿がどこへ遷ろうとも気にはなさいません。新しい社殿に遷った大勢の神さま方が、より多くの氏子の皆さまから篤く信仰される立派な神社にお住まいになる、これに勝ることはありません。

五の宮大明神の場所で合併した新しい神社を存続させればよかったではないか、との思いはゼロではありません。しかし、交通の便を考えた時、そうも言ってはおられません。現在の朝田神社は駅からも近く、参拝するのにとても便利です。五の宮大明神に歩いて行くことは限りなく辛そうなので、凌雲寺などの観光案内図から外れた場所と予定を合わせてタクシー貸切り日を作るのがおすすめです。たいへんな出費となることは間違いなく、あとあと苦しいですが、自由自在にどこへでも行けてしまうので、たいへん効率がいいのです。そのかわり、同じ場所に二度もお金は払えないと思って見落としがないように、隅々見ることを心がけねばなりません(それができずに苦しんでますが)。

こんな方におすすめ

  • 五社詣での追体験をしています
  • 由緒ある寺社ならば、跡地でも見たいです

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎吹き出し用イメージ画像(涙)
五郎

ほとんど何もない上に遠いね……。さすがのミルも歩いては無理だった

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

電動自転車を乗りこなせる人ならば、凌雲寺も楽勝みたいだよ。でも乗りこなせない(涙)

五郎イメージ画像(背景あり)
五郎とミルの部屋

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

続きを見る

  • この記事を書いた人
ミルイメージ画像(アイコン)

ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
あなたの旅を素敵にガイド & プランニングできます
※サイトからはお仕事のご依頼は受け付けておりません※

-関連史跡案内