人物説明

大内晴持(義隆養嗣子)

2023年6月12日

大内晴持・水城るり様画

大内晴持とは?

大内氏三十一代・義隆の養嗣子。義隆の父・義興の娘、義隆の姉が土佐一条家に嫁して生んだ子で、義隆の甥にあたる。実子がなかった義隆が、幼いうちから養子として迎え入れ、跡継として大切に育てたと考えられている。公家化した養父の元で、そもそも公家である一条家からやって来た若君。残された史料も少なく、果たしてどのような教育を受けていたのかは不明。

出雲・尼子家の月山富田城攻めで養父に同行。大敗北を喫し逃亡する途中、乗っていた船が転覆して溺死。二十歳前後の若さと思われる。養子とはいえ、我が子同然に晴持を慈しんでいたらしい義隆は、その死を嘆き悲しんだ。これを境に、当主としての役割を果たせなくなったといわれている。

大内晴持・基本データ

生没年 1523?~1543年
初名 恒持
父 一条房家
母 大内義興の娘
通称 新介
官位等 従五位上 ⇒ 正五位下、周防権介 ⇒ 左衛門佐
 法名、墓所等 金剛福寺(蹉跎山・補陀洛院、高知県土佐清水市)に位牌
(出典:『新編大内氏系図』、『大内氏実録』等。ただし正確なところは不明。後述)

養父垂涎「ホンモノの公家」から迎えた若君

朝廷から賜った位の高さ、荒廃した京都から逃れて来た公家たちもびっくりの京より京らしい山口の屋形暮らし。どこを切り取っても完全に公家と化していた大内義隆。けれども、その出自はどう頑張っても「武家」であるという事実だけは変えられない。そんな義隆にとって姉の嫁ぎ先である一条家から来た養子・晴持は歴とした「公家」の血統を持つ甥。だからかどうかは知らないが、かな~り気に入っていたことだけは想像がつく。

けれども、系図にも近藤先生の『実録』にも、書かれた記事はほんのわずかであり、実態はよくわからない。例えば、我々は普通に「姉の子 = 甥」だから養子にしたのだろう、と考えている。けれども、じつはそれすらも「よくわからない」のが現状。

はっきりしているのは、一条家から来た養子であるということ、月山富田城攻撃で敗走する途中に亡くなったということ、あとは叙位任官くらいなものである。にもかかわらず(分量は少ないものの)あれやこれやの「通説」(伝説?)が残されているのは後世の軍記物由来の言い伝えが少々あるからにすぎない。

生母は誰なのか?

とくにこだわりがないのなら、普通に姉の息子、甥だから養子にしたのだ、でお終いとなる。正直、姉の息子ではないのならば、いったいどこから来た誰の息子なのか!? となって、そのほうが問題である。「一条家」から来た男子であることにはどなたも異論がなく、問題となっているのは母親である(『房家』の子であるかどうかについても、ほかのご意見を見付けたので保留。後述)。

『新編大内氏系図』には、義興の娘一人が「土佐国一條大納言房家卿室」となったとある。けれども、その女性が「晴持母」とは書かれていない。数は少ないが、系図中には「○○の妻、△△等の母」という記述が書き添えられている女性たちも存在する。但書がない、ということは、義興の娘であり、房家室となった女性から晴持は導き出せないのである。ならば、「義隆の姉の子」という記述はどこにあるのか、と言えば、義隆の養子「義房」なる人物の欄に「一條大納言房家卿の四男」「母は義隆の姉」と書かれている。

そういうことならこれ以上迷う必要はなかろうと思うが、「母は義隆の姉」という記述には続きがあり、「あるいは、伏見殿姫宮とも」となっているのである。『実録』は「系図あやまり也」として、「伏見殿姫宮」説を採用している。その根拠は、『異本大内義隆記』と『棚守房顕覚書』とが「姫宮」説を唱えているから。

『大内義隆記』も『棚守覚書』も、ともに史料的価値が高い文献ということになっているし、そのいっぽうで系図のほうはどこに行っても「アテにならない」と言われている。となると、確かに「姫宮」説が俄然優勢ということになる。けれども、本当にそうなのであろうか? 『棚守覚書』はともかくとして、『大内義隆記』はただの軍記物である。『陰徳太平記』は嘘八百(近藤先生が『俗書』と名指しで切り捨てている)扱いなのに、『義隆記』に書いてあることならばすべて正しいかのようなご説はちょっといただけない。『陰徳太平記』があまりにも気の毒である。

普通に考えて、単に「姉の嫁ぎ先である」という理由だけで一条家の息子を養子にするだろうか。晴持の死後、大友宗麟の弟・晴英も「一瞬だけ」義隆と養子の契約をしたことが知られている。じつはこちらも母親が誰なのかと疑い出せばキリがないのだが、やはり「姉の子、甥」だったから養子にしたと考えるのが妥当だろう。

四男なのでやることもなく余っている息子だったのかどうかは知らないが、「一条家」の人間である限り、義隆とはお互いに異姓他人。母親が大内氏の血縁でも何でもなかったとしたら、そんな人物を天下の大内氏の養子にする意味がわからない。

むろん、近藤先生のような大家を敵に回す勇気はないから、晴持の父親は一条房家、母親は義隆の姉。しかし、伏見殿姫宮とする説もある、とまとめたい。要するに「はっきりしない」わけ。

実家・土佐一条家

それでは、晴持の「実家」である一条家とはどのような家なのか。その答えは、五摂家のひとつで、名門中の名門である、ということ。藤原氏北家嫡流の九条家から分れ出た家である。分出は鎌倉中期のことで、九条道家の四男・実経が始祖。武家は名字の地を以て名乗りとするが、じつはこれ、公家も似たようなもの。ただし、土地というより、邸宅などを以て家名とする。九条実経は父・道家に「一条室町殿」というお屋敷をもらった。「一条」の名乗りはこのお屋敷から来ている。『日本史広事典』によれば、九条道家は次男・良実とは不仲だったが、実経のことは気に入っていた。ゆえに「多くの所領を譲与された」という。このことがのちのち重要となるので、心の片隅に。

細川澄之イメージ画像細川澄之
九条家出身・細川家養子

『尊卑分脈 』には九条・二条・一条のうち「一条殿の流れをもって嫡家となす」と書かれているそうで、代々摂政・関白となる家柄だった(参照:『日本史広事典』)。

一条家

九条道家四男・実経 ⇒ 家経 ⇒ 内実 ⇒ 内経 ⇒ 経通 ⇒ 房経 ⇒経嗣(二条良基の子、養子)⇒ 兼良 ⇒ 教房、尋尊(大乗院門跡)、冬良
(典拠:『日本史広事典』一条家略系図の一部分。女性、僧侶、冬良以降等省略)

足利義尚アイコン
足利義尚

『樵談治要』は関白殿が我に天下を治める政道の法について記してくだされた書物である。左京大夫の元にも一冊あったはずだな?

新介通常イメージ画像
新介

はい。父上の文庫にございます。

足利義尚アイコン
足利義尚

うむ。きちんと学んでおるようだな。我が偏諱を賜った栄誉に恥じぬよう、立派に努めよ。

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

……(話が見えない)。

一条家は「五摂家のひとつで、名門中の名門」。けれども、武家が主人公の世の中となってのち、朝廷やそこに出仕する公家たちは、身分は高くとも経済的には非常に困窮していた。たとえば、義隆期には、天皇の即位式すら思うに任せぬほどで、義隆含む裕福な武家たちの献金でようやく式典が完了できたくらいだった。このような状況下ゆえ、摂関家といえども……という感じがする。

本来ならば、義隆期の黄金の山や、政弘期の一条兼良との交流などを先に仕上げなければ意味が通じない話になってしまうが。そちら、奥深くて後回しになっているため、まずは概略だけ。

応仁の乱で在京中だった法泉寺さまともご縁が結ばれた一条兼良は、摂政・関白も務めたけれど、どちらかというと、学者として有名な人。時はちょうど応仁の乱の混乱期。大乗院門跡となっていた息子・尋尊を頼ってしばし京を離れ、戦渦を逃れるなどした。この頃すでにして、京の貴族の困窮ぶりは半端なく、雅な法泉寺さまに請われるまま、自らの研究成果としての源氏物語や伊勢物語の注釈本をせっせと書写してくれた。我が子の英才教育に熱心な日野富子に頼まれて、将軍・義尚のために「政道」本である『樵談治要』をまとめたりも。

兼良の長男・教房は長禄二年(1458)に関白・氏の長者となったものの、なぜか寛政四年(1463)に辞職している(年代確認典拠『日本史広事典』)。応仁の乱で一条家一家が疎開した時点では、父・兼良が二度目の関白となっている。兼良は摂関家の氏寺・興福寺に身を寄せたが、教房は一条家の荘園「幡多荘」があった土佐国・中村に下向した。ここで、さきほどの、一条家の祖・実経が父・道家から「多くの所領を譲与された」という話が生きてくるのである。

公家が戦乱を避けて荘園に下る話もどこにでも転がっているけれど、恐らく一条家が土佐国に持っていた荘園はかなり広大なものだったのだろう。教房の下向が単に疎開のためだったのか、それとも、彼の地で困窮した公家身分に甘んじている現状を打破して何らかの新しい生き方を模索しようなどという理想を持ってのことだったのかは知らない。けれども、結果的には後者となった。

教房はそのまま土佐国で亡くなったが、息子・房家は国司となり、やがて子孫は「戦国大名・土佐一条氏」となるからである。いっぽう、やや先のことにはなるけれど、教房の弟・冬良は大乱後の京で、兄にかわって摂関家を継ぐ。この人も、政治家というより学者で、やがてお父上同様、法泉寺さまとご縁が結ばれることになる。

法泉寺さまイメージ画像法泉寺さま
応仁の乱在京中、一条兼良と交流

土佐一条家

一条教房 ⇒ 房家 ⇒ 房冬 ⇒ 房基 ⇒ 兼定 ⇒ 内政 ⇒ 政親
(典拠:『日本史広事典』土佐一条氏より抜き書き)

晴持は、この戦国大名化する土佐一条家の出身、ということになる。父は房家と書いてある本が多いけれど、そうであるならば、元関白・一条教房の孫である。

ついでだから、土佐一条家のその後のことにも少し触れておくと、兼定の代に長宗我部家によって土佐国を追い出された。こんなところまで調べる余裕はないけれど、追い出されたのは兼定だけで、息子の内政は当初、長宗我部家の庇護を受けた。けれども、やがては彼もまた追放されてしまったという。それでもどういうわけか、事典では長宗我部家の滅亡によって、兼定の孫・政親が土佐から出国。これを以て土佐一条家滅亡、ということになっている。つまりは、祖父・兼定、その子・内政ともに追放された土佐国にこの人はなおも残っていて、恐らくは長宗我部家の庇護下にあったと考えられる(未調査)。兼定は大友義鑑の娘を母とし、大友義鎮の娘を妻としている。ゆえに、土佐国を追われたのちは、大友氏の元に身を寄せていたようである。「大友義鑑の娘を母とし、大友義鎮の娘を妻とし」とあるので、義興の娘が大友義鑑に嫁いだこと、「系図では」義鎮、義長(晴英)の母はその女性であることから、この人物も大内家の縁者という可能性が残る。

というようなわけで、晴持の実家「土佐一条家」は、土佐国に住み着いた摂関家の子孫。義隆はこのような名門から養子を迎えたのである。

こうして血統書付き養子を迎えた義隆だったが、はっきりしていることは、本当にこの一点だけである。

容姿端麗にして文武両道

『実録』に、晴持なる人物の人となりについて多少は書かれていないだろうかと探すと、見出しのようなことになる。こんなん、歴史書に載せることかよ? と思うが、出所は『異本大内義隆記』ということなので、現物を見てみた。話は多少前後するが、晴持が尼子攻めで大敗して逃げ帰る途中溺死したくだりに、つぎのようにある。

 この介殿(晴持のこと)と申奉るは、事もおろかや、一条殿の御若君、御母上は伏見院の姫宮にて渡らせおはします。この君は容顔美麗にして、詩歌・管絃・蹴鞠の道は申に及ばず、武芸に至る迄、世にすぐれさせたまへば、双ぶ方はおはせじ、と申ける。

なるほど。「御母上は伏見院の姫宮にて」と確かに書いてある。けれども、校正した米原正義先生は、「土佐一条房家あるいは房冬の子。母は義隆の姉と」と注釈を書いてくださっている。

「房家または房冬」とかなってしまうと、唯一これだけはと思っていた「房家の子」まで怪しくなってくる……。これはもう、一条家のことを研究している人にヘルプを求める以外どうしようもない。

さて、「容顔美麗にして云々」はともかく、「詩歌・管絃・蹴鞠の道は申に及ばず、武芸に至る迄」については、文武両道で非の打ち所がないという「賛辞」のようにも思えるけど、正直、もはや戦国乱世になっているのだからして、詩歌・管弦・蹴鞠なんてどうでもいい類の話。加えて、武芸にも長じていたとなれば、大内家歴代もびっくりな文武の逸材ということに。およそあり得ないことである。

「詩歌・管弦・蹴鞠」は公家のお遊び。いくら雅な家とはいえ、三点セットですべて秀でていたご当主なんていないだろう。こういう大袈裟な記述は軍記物ならではなのであって、およそ信じるに足らないこと『陰徳太平記』と大差ない。

ちなみに、義隆が晴持を養子に迎えたのは三歳の時だという。近藤先生によれば、これは系図以外の史料が言及していない点らしい。ということは、これも信用していいものかどうか危ういところだ。けれども、亡くなった時の年齢が二十歳だった、ということについては、『義隆記』、『異本義隆記』、『中国治乱記』、『房顕覚書』、『歴名士代』、系図、古文書(具体的に何の文書なのかは不明)と実に多くの本で意見が一致している。こうなるとどことなく信用できそうになってくる(典拠のほとんどが軍記物だけど)。

なので、本当に三歳で養子にしたかどうかは正直わからないけれども、そうであれば、二十歳になるまで我が子として傍に置いて可愛がっていたことになり、その親密さは実の親子関係にも近いものだったろう。「詩歌・管絃・蹴鞠の道」に勝れていたのが、名門の「公家」出身で先祖代々これらの方面が得意だったゆえにか、十七年間も義隆の元で公家の宴会に参加し続けていたからこうなったのかは不明。

そもそも「獲得形質は遺伝しない」とかなんとか義務教育で習った気がする。詩歌、管弦、蹴鞠にせよ、武芸にせよ、鍛錬して身につけるもの。父親が武芸の達人であったとしても、それが鍛錬によって身についたものであったなら、その子が生まれながらにして武芸の達人ということはないってことになるかと。ただし、たいていは代々武芸の達人の家柄ならば、幼い頃からみっちり仕込まれるので、同じく武芸の達人となる可能性は高くなる。鍛錬する環境はじゅうぶんに整っているのだから。ただし、それは本人の努力次第。

大内家歴代が文武の名将だらけであるのはけっして「遺伝」ではなく、恵まれた環境にあったというラッキーな要素はあったものの、おひとりおひとりがきちんと努力をした結果なのである。晴持が「詩歌・管弦・蹴鞠」に秀でていたというのが事実ならば、夜毎開かれていた「公家の宴会」で最高のパフォーマンスを発揮するために努力したゆえにと思われる。ただし、当主の跡継ゆえ、多少見劣りしても腰巾着に褒めちぎらるような光景は目に浮かぶ。

しかしながら「武芸に秀で」というのはまったく根拠がない。さる人の甥、さる人の養子である。そちらの方面も努力していたのなら、まったく本人の好むところだったってことだけど、短い生涯の中で、この人が「秀でた武芸」を発揮したという話はどこにも書かれていない。

大敗北と無念の死

跡継の務め

大内義隆の前半生は、父の代までの「貯金」に頼って何とか持ち堪えていたから、いちおう戦もあった。いちおう。父・義興代に決着が付かなかった尼子経久との争い。当然のことながら、放置はできない。それのみならず、九州も、安芸武田 & 厳島神主家も、その解決は息子の代に持ち越された。

正直、戦のことはまったくわからないか、あまりやりたくないのならば、それは有能な家臣に丸投げしてしまえばいい。ただし、決断を下すのは当主の務めなので有能な家臣も、最後はいちおう主にお伺いをたてなければならないが。かつて、亡き父・義興とともに戦場を駆け抜けた忠臣・陶興房は義隆に対しても忠実であった。老練な彼の尽力もあって、新当主も最初のうちこそ、そこそこ精力的だった(ように見える)。

そして、最晩年の義興が戦場も含め、あれこれのイベントに嫡子である義隆を連れて行くようになったのと同じく、義隆も養嗣子である晴持を表舞台に連れ出した。

官職の昇進も順調。将軍からも偏諱を賜るなど、武家の名門の跡継として、晴持の前途も洋々としているかのように見えた。九州討伐のため防府に出陣した養父に付き添い(討伐そのものは家臣が行なうのでパフォーマンスだけ。九州まで渡ったと書いてある『インチキ』な軍記物もあるらしいけど)、安芸国厳島神社で神事を見るなどもした。

九州はいちおう落ち着き、安芸武田と厳島神主家の問題も片付いた。義隆が優秀だったのではなく、家臣が優秀だったこと、敵方もすでに弱ってきていたことなどが幸いしていたのだろう。

けれども、出雲の大物、尼子家だけはそうやすやすと倒せる相手ではなかった。義興代と違い、家督はすでに経久の孫・晴久に移っていたにもかかわらず。

ここで、尼子との合戦の詳細は話題にしないけれども、いつかは決着を付けなければならない世紀の大合戦に、義隆は当然のごとく跡継の晴持を同伴する。

ここまではまあ、普通にある話。結論から言うと、戦には負けた。それもコテンパンといっていいほどにやられて。合戦である以上、勝ちもあれば負けもある。無事に帰れさえすれば再起は可能だ。けれども、晴持は亡くなり、その後の人生はなくなった。重臣であれ、身内であれ、跡継であれ、どんなに偉い身分の人でも戦で命を落とすことは珍しくない。しかも敗戦ともなれば。けれども、普通は主君やその跡継を最優先で逃すはずなので、彼らまで生きて帰れないとなると、そのダメージは相当なものと言える。しかも、晴持の場合、その亡くなり方が尋常ではなかった。

恨みは深し 出雲浦

尼子家との合戦、出雲遠征の大敗北で殿の大役を務めたのは陶隆房や毛利親子だった。陶についてはあまり語られることがないけれど、毛利元就と隆元とが九死に一生を得るような奇蹟の生還を遂げた物語は長らく語り継がれている。そのくらい、生死は紙一重という困難な逃避行だったことは事実である。

けれども、義隆と晴持とは、彼らよりはずっとマシだったはず。何しろ「最優先」なので。陶と毛利親子は陸路を逃れたが、当主親子は船で逃れた。むろん、お屋形とその跡継が乗る船を無事に出航させるまでに何人の家来が犠牲になったかはわからないが。一同は、無事に船を出せれば、恐らくは何とか逃げ延びることができると考えたのであろう。それゆえに、屋形と跡継は水路を行った。

不運だったのは敗戦の混乱の中、義隆と晴持とははぐれてしまったこと。最初から別行動でどこかで合流する予定だったのかも知れないけど。史料は多くを語らないので、義隆が無事に帰国できたのに晴持だけが命を落とすことになった経緯ははっきりしない。『義隆記』でもその『異本』でも、晴持はどういうわけか義隆が乗った船とは別の、「小舟」に乗ったことになっている。ここが運命の分かれ道となった。

敵の攻撃が激しければ、無事に船着き場まで辿り着くのも困難。そこまでは普通に理解できる。けれども、どうにかこうにか乗船できれば、あとは船に帆をかけて……かと思っていたが、じつはそう簡単にはいかないのだということを、最近になって知ってしまった。さらに恐ろしいことには、命を落とすのは「敵のせい」だけとは限らないのである。

名のある大将、忠義の家臣でない限り、人は誰しも己の命が大切と考える。意識せずとも、本能的にそうなる。ゆえに、逃走用のわずかな船に、我先に乗ろうとする。戦場は非情なところゆえ、限りあるスペースに全員は乗り切れないとなったなら、他人を突き落としてでも自らが乗ろうと必死になる。こうなるともう、身分の上下などなくなってしまうらしい。

『平家物語』にもまったく同じ状況が描かれていて、その時にようやく理解した(現代語訳ついてたから)。「逆落し」には鮮やかな奇襲を決める源義経と対照的に我先にと逃れようとする平家の兵士たちの無様な姿が描かれている。限りある船に我も我もと乗ろうとするので、身分のある人だけを乗せなければと、船に這い上がろうとする名もなき兵士たちは容赦なく斬り払われてしまう。それでも必死に船にしがみつこうとするので、腕や肘を斬られてしまい、海水を朱に染める修羅場となった。

まったく同じことが、晴持が乗っていた「小舟」でも起きた。敵軍の追撃が異常なまでに激しかったので、晴持を逃すために、福島源三郎親弘、右田弥四郎等といった忠義の家臣らが、我が身を犠牲にして晴持のために時間稼ぎをしてくれたという。それでも晴持は養父の乗る「御船」までは辿り着けず、とりあえず目に入ったその小舟に乗ったのだろうか。

舟(≠船)は何とか助かろうという味方の兵士たちでごった返し、ひどい有り様であった。『平家』ほど残虐ではないのが救いだが、舟上の者たちは、乗り遅れて水中を必死で追いすがり、舷によじ登ろうとして来る人々を楫や舟竿で払い落としていた。あるいは『平家』のように、太刀や長刀を使っていたら、人数を減らせたかも知れないのだが……。定員オーバーとなった舟はその重みで傾き、晴持は海に落ちてしまった。

『平家』の「落足」には途中から強引に乗って来た鎧武者の重みで船が転覆して、海に落ちた小松大臣の末息子が敵の手にかかってしまうという逸話があった。晴持の場合は、どのような状況だったのだろうか?

『大内義隆記』には淡々とつぎのように書いてあるだけである。

 小舟に余多の人の乗り移り、ふみかへされて死にたまふ。

『異本』のほうはやや描写が詳しいが、面倒なので同じ箇所一文のみ。

 人どもあまた乗移り、御舟をのりかへす。痛いしや介殿、御具足は召れつ、いかでかたすかりたまふべき、底のみくずとしづみたまふ。

要するに、人の重みで舟(≠船)がひっくり返り、海に投げ出されてしまったのである。水練に長けた人が探したり、もしかしたら陸を行く人々の中に紛れているかとその名を呼んでみたり、あれやこれや手を尽したけれどもとうとう見付けることはできなかった。義隆も報告を受けたものか、何とか見付け出すまではと頑張ったようだが、敵は迫ってくるし我が身も危ない。泣く泣くその場を後にするしかなかったのだろう。

『実録』によれば、晴持が落ちた場所は、出雲浦。ほかにも色々な意見があり、どことは決められないので、とりあえず多数意見に従っておく、と近藤先生は書いておられる。

彷徨うみたま

さて、こうして義隆の養嗣子・晴持は、出雲浦にて、哀れ海の藻屑となってしまった。けれども、ご遺体を「見付けられなかった」ことから、あれこれの言い伝えが生まれた。

ひとつは、よくありがちだけれど、「見付けられなかった」=「じつは生きていた」。もう一つは、ご遺体も見付かっていないのだから(味方、親族が見付けていないという意味。敵には見付けられた。後述)、埋葬供養もできないわけで、恨みが深い出雲浦付近を浮かばれない霊魂が彷徨って「祟りした」というもの。

いずれも「言い伝え」にすぎず、じつは「生きていた」ならともかく、現代の科学から「祟り」などという現象はあり得ぬことだと証明できる。しかし、中世の人々ならばこの手の噂話を普通に信じてしまって当然なので、軍記物などには書き込まれている。

慌てふためいて逃げていった大内軍には見付けられなかった晴持のご遺体は、後日地元の漁師の網にかかった。そこで、漁師はその首級を尼子の富田城に献上した。ところが、その日を境に、出雲浦では突然人が亡くなるという事件が多発し、鬼火が徘徊するなど奇怪な出来事が相継ぐようになった。

地元の人々は畏れおののいて、これは晴持の霊魂による祟りだと考えた。ゆえに、祠を造ってその霊を慰めた。なんと、この祠ならぬ「神社」は今に至るまで存在している! 祟りは科学的にあり得ないにせよ、当時の地元の人々が、晴持水死事件を畏れ、手厚くその霊を弔ったことは事実と思われる。

もう一つの、「実は生きていた」についてだが、先の漁師の網にかかり云々の話が二つに分岐したもので、ご遺体ではなく、生存していた状態で発見された。漁師は晴持が「息を吹き返し」たので、しばらく匿ってやり、その後山口へ帰国したのだという。

『実録』の近藤先生は、この晴持を祀る社の近くを通りかかった時、社付近に小さな祠があるのに気付き、いったい何を祀っているのかと地元の方に尋ねた。すると、祀られているのは晴持を見付けた漁師とのこと。じつは生きていて云々の話はどうやら、近藤先生が地元の方から採取したものであるようだ。その漁師さんの先祖代々の言い伝えがそれで、この時、晴持からもらったものであるという曲玉が一つ伝えられていたという。

近藤先生はこの「言い伝え」について、根拠がないことは言うまでもない、と仰っている。「じつは生きていた」ということもあり得ぬことではないけれど、もしも無事に山口に帰ったとしたら、その後の歴史は変っていたはずなので、確かに事実とは思えない。けれども、晴持を祀る神社には、今も小さな祠が付属していた。

そもそも、亡くなって祟りするから社を建てたはずであって、その傍らに、「じつは生きていた」のを助けた人の祠があるというのも妙な話ではある。

晴持が生きていたならば

出雲での大敗北で、大内義隆は完全にやる気を失った。ことに、晴持を亡くしたショックが大きかった、というのが通説。確かに戦に負けて喜ぶ人などいるはずがないし、我が子同然に可愛がっていた養子に死なれたら、しばらくは立ち直れなくなるのもわかる。けれども、大国の主である以上、いつまでもそれを引き摺っていては困るのである。義隆の場合、出雲での大敗北で何もかも嫌になったのは事実として、それ以前からかなり問題があったように思う。何もかもが上手くいっている時には問題ないことも、いざ何事か起った時に、途端に大問題となってしまうことは往々にしてある。もともと戦嫌いで、公家マニアな人。連戦連勝ならば気をよくして、多少はやる気が起きるかもしれないが、そこで大失敗をやらかしてしまったら、もはや二度と嫌だとなるのも無理からぬことだ。加えて、「実子がいない」ということも大問題であった。

第二の養子と突然生まれた嫡男

いつまでも跡継の座を空白にはしておけないから、義隆は大友家にいるもう一人の甥、つまりは大友義鎮の弟・晴英を養子に迎えようとしたらしい。本当に、なにゆえ先に行くに従い、男子に恵まれない家になってしまったのかと思う。義隆本人が無能なのだから、その息子などに期待はできないものの、有能な家来が揃っていればそこそこ家は回っていくだろう。けれども、のちに叛乱を起こす陶隆房にせよ、先代の興房とは比較できないほど小粒である。ほかの家臣のところも似たり寄ったりだったろう(根拠なし)。

亡くなった晴持が、本当に文武両道に秀でた逸材だったらものすごいことになっていたと思うが、どうやらそこは軍記物の世界らしいし。いずれにしても、亡くなってしまったのだから、幽霊に家督は譲れない。大友家の甥も、同じく義隆の姉の子。大国大内家の養子に迎えてもらえると知り心ときめいたらしいが……。

なんということか、ここへ来て、突然に義隆に実子ができてしまった。実の子がいるのに、養子など不要、ということで、大友家の甥を迎える話は白紙になったようである。のちに、家臣らの叛乱で主に担ぎ上げられた時、大友晴英はいったん養子契約の話が出ていたのに反古にされたことを恨みに思っていたとかいなかったとかいうことが時々話題に出る。けれども、古来より養子 vs 実子がお家を目茶苦茶にした例は枚挙に暇がない。

畠山義就と畠山政長がそのいい例だろう。とはいえ、将来実子が生まれたら……と思っていつまでも跡継を決めておかないのもまた問題となる。主にもしものことがあったらどうなるのか、家臣たちは不安でならないだろう。この点、実子に恵まれない人は、ある時期が来たら養子を迎えて将来に備えておくことは重要だが、そのある時期をいつに設定するのかは本当に悩ましい問題だ。

実子が生まれた以上、大友家の甥が不要となるのは当然で、それは晴英には気の毒であっても、第二の畠山政長になっては困るので、当然の選択と言える。

家督争いの火種となり得たか?

ここで思い至るのは亡き晴持のことである。恐らくは義隆本人が、もはや実子の誕生は望めないと半ば諦めていたと思われる。晴持が亡くなった時、すでに二十歳の青年であり、跡継としてのパフォーマンスも行なわれていた。けれども、後から自らの息子が生まれたら、いかに晴持が優秀だったとしても、やはり我が子のほうが愛しいと思うのが親心というもの。足利義政など、弟・義視を跡継に指名するにあたり、万が一将来実子が生まれても即出家させると固く誓っていた。間に応仁の乱のゴタゴタを挟み、兄弟対立に至る経緯があったとはいえ、義政は当然の如く後から生まれた実子の義尚を跡継に立ていている。

老いてから(現代の感覚ではまったく老人ではないけど)実子・義尊を得た義隆が、それ以後も晴持に対する感情を変化させることなく、義尊を控えに回してでも晴持を跡継としただろうか? そう思うとなんとなく、晴持が出雲浦で亡くなったことで、その後起こりえたお家騒動が回避されたのではないか、と不謹慎なことを考えてしまうのである。

それと同時に、三歳で晴持を養子とし、以後十七年間も養育した、ということがとても不思議なことに思えてきた。なぜかなら、義隆が実子の誕生が望めないと諦めるのがあまりにも早過ぎる嫌いがあるからだ。なにゆえにまだ若いうちから養子など迎えたのであろうか。

たまたま十七年もの間実子に恵まれなかったけれど、最終的には男児が生まれている。それも一人ではない。なにゆえに養子を迎える必要があったのだろうか? 似たようなケースで、細川政元を思い出すが、これは「実子の誕生が望めない」とはっきりしていたからである。のちの史実を考えれば、義隆にはそんな事情はなかったはず。京都から迎えたやんごとなき姫君だった奥方の召使い女に手を出したくらいだから、かなり好色だったと思われるし、政元のように信仰を理由にストイックに生きるゆえ(これ、かなり説明が間違っていると思うケド)、跡継は養子でまかなう、という構図は絶対に成り立たない。全く以て理解に苦しむ。

細川政元イメージ画像細川政元
修験道命。妻帯不可

まあ、偉い人の考えることはわけわからんから、養子が欲しければいくらでももらってください、ってなるけど。だが、たとえ、義隆が晴持は優秀だし、ずいぶん前から跡継と定めて立派に教育してきたし……などと言って初志貫徹できたとして、実子を産んだ側室(のち正室)はかなり問題がある野心的な女だし、これ、どうなったか本当にわからない。

あるいは、大友晴英を連れてくるまでもなく、晴持を三十二代として家臣の叛乱は起っていたかも。そうなるには、晴持と養父の関係が悪化している必要があるが、さて、どうなったものやら。イマドキに伝わる本には、晴持を亡くした義隆が悲しみのあまりやる気を失った云々は大量に書いてあるが、晴持が養父に対してどれほどの「孝行息子」だったのかを示す史料なんてどこにもない。

冒頭、その母親が誰なのか不明、と書いた。もしも、近藤先生のご説の通り、なんたらの宮が母親だったとしたならば、晴持は大内家とは何らかかわりのない「一条家」の人間となる。だいたい、仮に姉の息子であったところで、やはり異姓他人であることにかわりはない。「大内姓」の跡継候補が大量に名乗り出、彼らの間で血で血を洗うような闘争が繰り返されていた時代、それを勝ち抜いて来たのが歴代の立派なご当主さまたちの時代である。

義隆には競争相手となる人物が一人もいなかった。それゆえに、エスカレーター式に当主の座に就くことができたにすぎない。じつは築山大明神さま以降の人は全員がそうではあるが、これらの先祖の方々はすべて、恐るべき有能な人物だったから、何の問題もなかった。けれども、無能だけど、これしかいないので……という事態は血で血を洗うよりなお悲惨といえる。

大内義隆の「実子」が幼くして叛乱軍のために命を落とすくだり。「軍記物」などでは、涙なくしては読めぬかの如き描写となっているが。さる人が父、さる人が母である。突然変異でもない限りは、誰も何の期待もしないだろう(義隆の誕生そのものが突然変異だが)。ゆえに、わずか1ミリも気の毒とは感じない。

毛利元就の三人の息子たちはなにゆえにあれほどまでに優秀であったのか。三人のうち二人は、他家の養子となったが、養子となって入った先でも、それらの家の家臣たちから尊敬された。家を「乗っ取られた」とか、毛利元就のやり方が「ズルい」とか反感を抱いた人はいなかったという。

晴持が有能な人物で、半ば沈みかけたこの大国を再び元のように陽の当たる大通りに引き揚げてくれるのなら、一条家から来ようが二条家から来ようがそんなことはどうだっていい。ダメな養父に意見しても聞いてもらえなかった叛乱者たちも、彼になら相談できたかもしれない。そうなれば、その後の血生臭いあれこれはなかったかも。そう思えば逃走の途中で乗っていた小舟がひっくり返り……とか、何とも無残な話である。

ただ、幸いにも、この人がさほど有能な人物であったとはあまり思えない。詩歌・管弦・蹴鞠に秀でた公家。そんなイメージである。彼を祀る神社に立ち寄った後、遙か彼方に宍道湖を望む出雲国のとある場所で、そんなことを考えた。

墓所・その他

山口市史『大内文化編』によれば、高知県の金剛福寺というところに晴持の位牌があるという。信仰心の欠片もないため、高知県にある!? となっても、いったいどこにあるどのような寺院なのかわからなかった。けれども、山口には何もなく、山口市の公式アナウンスにも墓所云々については何一つ書かれていない。敵地で亡くなっても、ご遺体が帰国すれば県内に何かあるし、大内義弘のように他県で亡くなったにせよ、その地で地元の人に葬られれば墓所はそこにある。その場合、山口市史に必ずその旨の記述がある。

晴持は「当主」にはなっていないが、位牌の存在する場所を書いてくださっているので、墓所は「ない」ものとみなしてよいと思っている。けれども、大内文化探訪会という著名な団体から出ている『大内氏歴代当主とゆかりの地』というご本にも、晴持を祀る島根県の神社のことは載っているから、『実録』に出てくる神社の話は事実である。

早速、現地へ赴いたけれど、観光案内看板が判読不能となっていて、果たして近くに墓所のようなものがあるのかは不明(あるとしたら書いてあるような気がする)。ただし、上述二冊の権威あるご本に記載がないので、あるはずがない。何らかの足跡を探したい人は、位牌のある寺院か、のちほどご紹介する神社に行けばよいと思う。

で、神社には行ったけれど、寺院のほうは行ったところで位牌が拝めるはずもなく、特に参詣する意義を見出せなかった。しかし、念のため当該寺院さまについて調べたが、ホームページはないため、土佐清水市のホームページと「四国八十八ヶ所霊場会」というところの記述を拝見した。

「土佐くろしお鉄道」中村駅から足摺岬を目指し云々とあるので、あるいは一条家の本拠地「中村」とちょい関係ありげと思ったら、一条氏、山内氏に手厚く保護されていた寺院とのこと。ただし、菩提寺とは書いてないから、大内同様滅びた家ということもあり、土佐一条家の関係者の墓所だの菩提寺だのがどこにあるのかまでは説明はなかった。

戦国時代の頃、この寺院からたった一人で小舟に乗り、常世の国を目指す「補陀洛渡海」とやらが盛んだったとか。なんだか、小舟がひっくり返って亡くなった晴持の位牌がここにあるのも何かの因縁かと思った。彼は今頃、常世の国についているだろう。どんなところなのかわからんけど。

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足摺岬、懐かしいです。もしかしたら、このお寺にも行ったことあるかもしれません。

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そんなことどうでもいいから試験勉強してよ。早くミルに戻って来て欲しいから。

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恨みは深し 出雲の浦♪ (メロディー:七里ヶ浜の哀歌)引き続き、彼を祀る神社についての記事を作成中です。しばらくお待ちくださいませ。

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こんなサイトのことはどうでもいいから、まずは試験頑張ってね(ミルに会いたい……)。

参考文献:『大内氏実録』『山口市史 大内文化編』『戦国期 中国史料撰』(大内義隆記)『大内氏歴代当主とゆかりの地』、『日本史広事典』、土佐清水市ホームページ(金剛福寺)、四国八十八ヶ所霊場会ホームページ(金剛福寺)

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