第八十九話:ワヤクチャ厳島

隆房が戦奉行らとの打ち合わせに行った隙に、千寿は鷲塚を部屋に入れた。鷲塚としては、このような「二人だけ」の時間を作って欲しくなかったのだが……。
「隆房様に見付かったら面倒だから、大急ぎでお願い。あの、厳島の戦いの話が知りたい」
またもあの、キラキラの瞳。
「わ、私に歴史のことは聞かないでくれ」
鷲塚はこちらへ来る前、木下綾香に織田信長と徳川家康くらいしか知らないと言って笑われたばかりだ。
「君は例のムービーを見たのだろう? あれがすべてだ」
千寿は激しく首を振る。
「そんなはずないよ。あんなアホなもの、誰が見る? 隆房様が狭い島に大軍を詰め込んでいるところに毛利元就のジジイが奇襲を仕掛けたって。なんで? 村上水軍から一日だけ船を貸してくれとか、意味わからん。これ書いた連中アホなの? それとも、隆房様が本当に馬鹿だったの? お願い、教えて。毛利家を厳島で潰してこそ、千寿は恨みを晴らせるの。だけど、あんなに短い意味不明の話だけじゃ、何もわからない。今、毛利家が本当に『囮の城』とやらを造っているんだよ。ムカつくから、気がつくたんびに潰してる。このままだと、永遠に城を建てることはできないよ。でも、あまり地震を起こすと髙祖にバレてしまうかも。あの男、毛利家にいたの」
「なに? あの、ピストル男がか?」
鷲塚もあの男よりは隆房がマシと認めてかまわないと思う。そのくらい不愉快になった。鷲塚の乏しい知識はすべて、ゲーム機から来ているのだから、千寿にあれこれきかれても分るはずがない。でも、すでに連中が『史実通り』の城まで造り始めているとなれば、開戦はまもなくだ。もう一度歴史書を取りに戻るわけには……。
そういえば、手持ちのタブレットの中に、歴史大事典も入っているではないか。この世界で商売をする際、分らない事があったら使おうとデータを持ち歩いていた。
「厳島の戦い……」
千寿はデジタル歴史事典の項目を見て見たが、わずかに数十行しかなかった。
「これだけ? ゲーム機と変わらないじゃない」
彼らの時代から千五百年も過ぎているのだ。書き込まれる歴史事項も年々増えていくので、一つ一つの項目についての説明文は版を重ねるごとに短くなる。研究者であれば、こんな薄っぺらな歴史事典ではなく、ネット上にまとめられた紙媒体の本、数十冊、いや、数百冊分にも及ぶデータベースにいつでもアクセスできた。知的な人種は、そこらのネット民のサイトなど覗くことはない。彼らは研究費を使ってそのようなデータベースの会社と契約を結び、高い金を払ってそれらの会員制高級メディア「だけ」を閲覧する。そして、インテリならば、そのような会社と契約し、あれらのゴミのようなブログだの個人サイトだの、まとめニュースだのというインチキ情報をシャットアウトすべきである、とされていた。
しかし、鷲塚は裕福ではない。毎月多額のクレジットが引き落とされるそれらの会員制インテリ図書館サイトなどと契約はできない。あれを見れば、もう少し詳細な記述があるだろう。
「取り敢えず、毛利家が囮の城を造り、君たちがそこへ誘い込まれ、でもって、その、あのジジイが奇襲した、そんな感じだ」
「それ、このムービーまんまやん!!」
「いや、だから私に歴史を聞くなと……」
鷲塚は参ってしまった。未来の人物だから過去のことをすべて知っているなどと思われたら困る。大内家なんて家の存在すら知らなかったのだ。
「お……そう言えば……」
「何?」
千寿が目を輝かせる。
「綾香が厳島に行った時、毎日のように立て看板の写真を……」
「あやか? あ、フィアンセだね? あやかというの?」
鷲塚は照れくさそうに聞こえないふりをして、スマートフォンを起動した。少し前のことだが、日光と宮島の若女将会とやらで、木下綾香が宮島に行ったことがあった。鷲塚の元には毎日のように写真付きメールが届くのだが、その写真には彼女の姿も、厳島の大鳥居とやらすらもなく、観光案内の看板ばかりが添付されていた。
――変わった人だな、君は。立て看板マニアなのか?
――あら、綺麗な写真はかえってからゆっくり楽しもうと思って。それに、メールしたらあなたの手元に写真が残るでしょ? それ、何かの役に立つかも。
立て看板の写真など見ても何も面白くないので、鷲塚はろくに見もしなかった。
観光案内立て看板。地図もあれば、歴史的由来の説明文もある。神社仏閣であればその由緒、国宝だの指定遺跡なんたらなのであれば、その指定理由や解説……。当然、「戦跡」ならそれに関する「歴史的解説」が。塔の岡、博奕尾、大元浦、駒ヶ林、桜尾城、洞雲寺……綾香は宮島以外の場所にも行っていたようだが、それらは当然、厳島に関連があるゆえにだ。
そうだ。
――それ、何かの役に立つかも
あの時の綾香の言葉は神の声だったのかも知れない。
「私には何の役にも立たないものだが、君ならば。しかし、ここにはこれをプリントアウトするシステムはない。すべて頭に入れてくれ。訳に立てばだが」
千寿は食い入るように立て看板の写真を見ている。
(何これ、そこら中に毛利家の家紋が。まったく。草履番に落とすだけじゃたりないよね……)
千寿はつぎつぎにそれらの写真に目を通していく。どれもピンポイントである場所を解説しているだけだし、そもそも「看板だけ」でその場所を写しているわけでもないので、視覚的理解の助けにはならない。それに、説明も断片的だ。でも、「桜尾」なんて城があったなんて、千寿は知らなかったし、隆房の本陣が塔の岡などという場所にあったことはもちろん、博奕尾なんて地名もゲーム機には載っていない。
でも、何やら目を通していくうちに千寿の目からは涙が溢れ、最後は感情を抑えきれなくなってしまった。
「なんなの、これ? こんな風に、未来の人間というのは、こんな風に隆房様を貶めて何が楽しいの? こんなの嘘ばっかりじゃないか。毛利元就なんて、ただの無欲なジジイだし、無能な臆病者だよ。多少なりとも『賢い』と言えなくもないのは、無駄な争いは好まず、狭苦しい土地で大人しくしていることくらいじゃないか。それなのに、この『立て看板』とやらにまで、あやつを褒めちぎる文面ばかり。これ、全部本当のことなの?」
鷲塚は千寿にそれを見せてしまったことを後悔した。少なくとも先に、自分でも目を通すべきだった。今更ながら確認して、洞雲寺なんぞ絶対に見せてはならなかったと知った。だが、すべては遅すぎた。
「あらましは分った。千寿はこんなデタラメには騙されない。それは山田の時代の『史実』であってこことは違う。せっかく歴史を塗り替えているのだから、そんなインチキな未来は全部忘れていい。『勝てば官軍』だよ。師匠が教えてくれたじゃない? すべては毛利家による『捏造』だ。隆房様は負けない。だって、千寿がついているもの」
「そうだ。勝てば官軍だ」
力強く宣言した千寿に、鷲塚も心からの拍手を贈る。この世界にも、やがて織田信長や徳川家康は出てくるだろう。何しろ、データ的には存在するはずなので。だが、もはや、彼らの出る幕など全くない。