第九十九話:新たなる旅立ち

「どう? 間に合いそう?」
木下綾香はれいによってひたすら文字を打ち込んでいた。鷲塚はデスクの上に電子手帳を置く。
「これを使えば、そのまま取り込める。君のアレンジは必須だが、私の聞き語りよりは早いだろう」
「ええ? ダメよ。あなたの言葉で聞きたい」
綾香は電子手帳を鷲塚に返す。意外とこのような子どもっぽいところもあるのだ。
「私には覚えきれない。どれだけたくさんのことを一度にやるか、とうてい想像できない勢いなんだよ」
「覚えきれないところはいいのよ。メモしても。だけど、一字一句そのままとかあなたが倒れてしまう。だったら、ボイスレコーダーのほうがいいじゃない?」
そこまで言って、二人は顔を見合わせた。お互いにやや青ざめている。話に聞いているだけならば、信じている鷲塚の言葉ならば、綾香はそれを追体験して楽しめる。だが、もしも録音された千五百年前の人間の声を聞く、となったら、なんだか空恐ろしい。
鷲塚もなにやら言いしれぬ恐怖に包まれていた。冒頭の辺りで、吉田が言っていたタイムマシンの「矛盾と禁忌」。あれを思い出したのである。元々この世に存在しないはずの「捏造された」彼ら。鷲塚は確かに彼らと出逢い、交流している。綾香もそれを信じ、少年のように目を輝かせて語る彼の話を聞くのが楽しい。でも……。
「いや、その……つまり、彼らを、この世界に連れてくることができない以上、その、声を録音するのも、やめたほうが……」
鷲塚の脳裡に、なんとなくだが、ボイスレコーダーに声を録音することが、彼らの精気を吸い取るかのような、前時代的で、非科学的な妄想が渦巻いていた。このことは、まともな頭で真剣に考えてはいけない。またしても何やら分らない得体の知れないブラックホールに陥ってしまう。
彼らとはもうのこり三ヶ月の付き合いだ。その後は思い出の中に入る。せめてその間だけ、皆が平穏無事でいてくれたらそれでいい。
「よーーし、それでは、今回の航海について話すぞ」
鷲塚が勿体ぶって言うのを聞いて、綾香はまたブラウザの前に張り付く。しかし、その顔から笑みは消えていた。先程から、心の中に、何かが引っかかっていたのだが、それが何なのか、綾香にはどうしても思い出せなかった。

「史実」とは違う、彼らの空間にも、鷲塚と綾香が知らないあれこれはたくさんある。千寿があんなにも山田の到来を待ちかねるほど、そもそも彼が来ることじたい「珍しい」のだ。千寿から見たら、その人生のうち、山田と一緒にいた時間などほんのわずか。彼らが未来の世界でそのほんの僅かを必死に文字に起こしていることなど夢にも思わなかった。
この世界には『女社長とエンジニア』はないから、千寿は兵法書を読みたいと思って書庫を訪れていた。その昔、太守様のために書庫に本を取りに行くことは千寿の「仕事」と決まっていた。なぜなら書庫の中の書物はどれもたいへんに貴重なので、誰でもが勝手に中に入る事は許されていなかったからだ。
どの棚にどの本があるか、そのすべてを知っているのは千寿だけ。それに、絶対に書物を粗略に扱うようなへまはしないと信頼されていたから、出入り自由。おかげで、ほかに誰もいない書庫は、いつの間にか千寿と隆房がこっそり逢い引きをする場所になった。
あの公家館が崩壊した今、あれらの貴重な書物はすべて失われてしまった。千寿はそれらを、相良に命じて少しずつ探し求め、同じような規模の書庫を作りたいと願っていた。こういうことは、昌典には気付いても、昌興には気付かない。だが、天下を統一しようという家が、いつまでも「戦馬鹿」扱いでは困る。
金銀財宝は溢れるほどあるのに、どうして書物は捏造できないのだろうか。たまに、ゲーム内イベントで商人が売りに来ることもあるのに。でも、ゲーム機の中と実際は微妙に違うのだ。
(いや、微妙どころか全然違う……)
あれらは山田言うところのゲーム運営会社の人が作ったもの。もちろん、多少は歴史に詳しい人たちだろうが、予算の関係もあって、すべてを盛り込むことは不可能。だから、あれもこれも省略されている。山口には大勢の公家たちが下向していた。だからあの殿様は夜毎公家達と公家の宴会の真似事ができた。
ミニチュア版京の都で優雅に暮らしていたあれらの公家達は、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまったが、やがて城下が落ち着いてくると舞い戻ってきた。だが、生活は困窮し、食うために貴重な書物を平気で手放した。やがて、平和な時代がやってきて、無事に京に帰ることができたなら、そのときはまた、いくらでも貴重な書物が手に入る。今は戦馬鹿に売り払ってでも金子に換えよう、と。
相良はそのような書物を蒐集していた。千寿はそのプロジェクトの進み具合を見に来た、というわけだ。すると、書庫の中から、相良の怒鳴り声が聞こえてきた。
「まったく、何度言ったら分るのだ? 馬鹿なのか、お前は。えええ、もしも、我が殿がおられたら、お前など『馬鹿なの?』と、こう、足蹴にされるぞ」
その「馬鹿なの?」のところだけ、声色を変えていたのがとんでもなく「キモく」、千寿は眉をひそめて現場に踏み込んだ。
「ちょっと、どこのネズミが偉そうにしてるかな?」
相良は以前とまるで変わらない。汗びっしょりになってその場に這いつくばった。
「あああああ、こ、これは、千寿様、いえいえ、その、殿、ええと、このでくの坊が……」
千寿が「でくの坊」とやらの顔を覗き込むと、なんと、そこには思いがけず、「昔懐かしい」顔が。
「おお、千寿ではないか」
「これ、何という口のきき方をするのだ、無礼者。死にたいのか?」
そう叫んだのは、千寿ではなく、相良であった。
千寿は軽い目眩に襲われ、書棚に手をついて身体を支えた。
「あああ、殿、大事ないでしょうな?」
何やらつい最近、これと同じような光景を見たような気がする、と相良は思った。しかし、役者も場所も全く違う。
「どうして?」
千寿が相良のほうに向き直った。
「どうしてこの者がここに? 兄上は元『当主』の扱いは丁重に、と言い置いたはずなのに」
「ええ、そ、それは……その、この者は書物に詳しいので。適材適所、と申しますか。悔しいですが、それがしよりも数倍上でして」
「因果応報、だよね」
千寿がそう呟いたのをきき、相良は大いに喜んだ。
「仰る通りですとも。この男、それがしや千寿様を奴隷のように扱い……」
「相良様って、本当に学習能力高いよね。大分前から気付いていたけど……。たくさんの南蛮の言葉、いったい誰から習ったの?」
「は?」
相良はその場にバッタリと倒れた。平伏したのだ。
「おおお、お許しを。その……これなる書物にて……」
相良の懐中から、『南蛮人用語事典』という書物が出てきた。
「何これ?」
見た目は完全にこの時代の書物なのに、中身はカタカナや、後世に作られた歴史用語などが溢れていた。
「そ、その、悪気はまったくないのでして。ただ……将来に備えて、それがしもこれらのことを学んだほうがよいのではないかと……」
「もういいよ。二人とも、立って」
相良と一緒に立ち上がったその人は、元のこの「場所」の主・大内義隆だった。
「太守様。子作りは進んでいますか?」
千寿に尋ねられた元・主はその声が、かつての鶯の囁きのように麗しかったから、つい我が身を忘れた。
「おお、もちろんだとも。今はわしも五人の子持ちだ。下の二人は男児で。お家も安泰……」
最後まで言えなかったのは、相良に蹴り倒されたせいだった。
「何度言ったら分るのだ? その口のきき方、改めんか?」
「……お許しを」
「相良様」
千寿に呼ばれて、満面の笑みを浮かべる相良。
「二人だけにしてくれる?」
「え? えええええーーー。いや、その、それはとんでもなく、危険です、そ、それがしが、昌興さ……いや先の殿、いいえ、その……」
「大丈夫だから」
千寿に怒鳴られて、相良は慌ててその場から転がり出ていった。
「まさか、こんなニアミスするなんて。書庫にはいつから?」
「に、にあみ……? ああ、ええと、その……かなり以前からです」
「つまりは、兄上の時代から、ずっと相良様にこき使われていた、とそういうこと?」
「は? 相良? いや、その……」
相良「ごとき」にいいようにされていた、などと認めたくはないだろう。それに、相良は恐らくは昌興の名前を騙っていたに違いない。
「城の人事はずっと相良様に任せきりだった。『戦馬鹿』なので。でも兄上は『元』太守様方を丁重に扱うようにと厳命していた。つまり、兄上を恨んだらお門違い。明日から来なくていいよ」
千寿に「来なくていいよ」と言われた義隆はその場に跪いた。
「お、お許しを……」
(やめて。キモい……)
千寿は纏わり付く元主を蹴り倒したかったが、「丁重に」という兄の言葉があるので我慢した。
「心配しないで。お金はちゃんとあげるから。自宅……あるの? 家?」
「……ございます……あばら屋が一軒……」
恐らくは本当に掘っ立て小屋か何かだ。
「後で相良様に言って……いや、他の人がいい」
千寿は誰を指名しようかと思って悩んでしまった。相良以外、知らなかった。あとは戦馬鹿ばかり。すべて出陣中だった。
「直接届けさせるから、金子。まともに家を建てられるくらいの。きちんと整えて、五人養って」
後はほったらかしで、出て行こうとした千寿は背後に元殿様の声を聞いた。
「わ、わしを恨んではおられぬのですか?」
「言ったよね? 因果応報って。もう十分報いは受けたでしょ? 見てられないよ、こんなの。だいたい、恨んでいる、って何? 恨むとしたらそっちが、じゃないの?」
「いいえ、己の行いを悔い、恥じております……」
千寿はこの殿様が、生涯で初めてまともなことを言うのを聞いた気がした。
「悔いることも、恥じることもないよ。皆が平穏無事であればそれでいい。奥方と、五人の息子と娘、全員無事ならそれで」
背後から泣き声が起こった。
「奥方には逃げられましてございます……」
(そ、そこか……)
大帝国の跡継は無様だ。それに比べて、毛利元就のあの優秀さ。
「千寿はとっくに過去を捨てた。色々あったけど、満足してる。その中には、もちろん、殿様の公家館での出来事も。本来ならば、殿様は、大寧寺ってところで……」
千寿は言いかけてやめた。
「歴史は変わったんだよ。たぶん、良いほうに。兄上を恨まないでくれてありがとう。お元気で」
泣き声はさらに大きくなったが、千寿は振り返らなかった。なんだか悲喜こもごもで、千寿の目からも何かが溢れ出てきそうになった。でもそれは、きっと辛くて苦しいものではなく、もっと優しい涙だ。背後の泣き声からもそれを感じ取ることができた。
大内義隆は千寿から十分な金銭をもらって、そこらの貧乏公家よりも遙かに立派な家を建て、出仕などしなくても十分な手当が受け取れるようになった。やがて、その才を買われて、再び城に招かれることになるのだが、それはずっと後の事。彼が千寿と会えたのは、この奇蹟のような一回が最初で最後となった。