第九十八話:ハネムーン to 室町

数日後。有川昌興は床上げし、呼び集められるだけの主だった家臣を集めた。その席で、昌興が出家して隠居すること、さらに、その跡目は千寿が継ぐこと、が発表された。
もはや反論する気力も失った昌典は重臣の群れの先頭に座ったまま、機械的に兄と千寿とに平伏恭順したのだった。ところが、その彼の耳に、千寿の甲高い声が聴こえた。
「当主として最初に命じたいことがある。先の殿からもすでにお許しを頂戴した。我が兄・昌典殿と毛利元就殿のご息女との婚儀をまとめ、毛利家との子々孫々続く友好関係をより強固なものとしたい」
衣冠整い颯爽とした千寿の姿は、これまでの稚児姿を見慣れていたものたちから見たら、まるで別人のよう。言葉つきまで、当主然としていた。
「な、なに!? わ、私は既婚者で、娘もいる。なにゆえ……」
昌典は真っ青になっていた。よりによって、政治生命を絶たれるのとはまた別の、このような嫌らしいことを押し付けてくるなど……。
「これはおめでたいことにございますなぁ」
あらかじめサクラを頼まれていたのか、相良武任がやたら大声を張り上げて、昌典に頭を下げる。
「有難き幸せにございまする」
毛利元就もにんまりしている。
「そ……わ……私は認めては……」
広間を埋め尽くす家臣らの祝いの言葉で、昌典の愚痴は完全にかき消されてしまった。

(あり得んわ。認めるものか……)
昌典は「絶対に」新しい妻などを迎えるつもりはなかった。そのことは、戦馬鹿の父と兄にもしつこいくらい言い続けてきた。千寿も知らないはずがない。昌典とて、数多の側室を迎えれば、すぐにも男児に恵まれ、これまでのようなややこしいことをし、周囲から骨肉相食むなどと後ろ指を指されずとも、兄が死ねば自動的に我が子が当主となると知っている。知っているのにそれをやらなかったのは、「それだけはどうしてもいやだった」からだ。兄・昌興だけが麗しいたった一人の奥方への思いなどと褒めちぎられているが、己とてそうなのだ。だいたい、新しい母親が来たりしたら、娘の奈津にも嫌な思いをさせるではないか。
昌興が病重く、もはや余命いくばくもない、となった時、昌典とともに祝杯を挙げた元々の配下、そして急に降ってわいた風見鶏のような連中。彼らは、昌興が南蛮の妙薬のお陰で一命を取り留めたが、政務を執るほどの気力はもはやないこと、そして、彼が「生存」してにらみを利かせた上で、跡継ぎに千寿を指名した、ということで形勢が昌典優位ではなくなったと分かったとたん、いつの間にか姿を消していた。腹が立つのは、「元々の配下」の中にもコソコソと逃げ出したものがいたことだ、
完全に孤立した昌典には、三枝道憲と舅・杉興運を除けば誰ひとり、この気が進まない婚礼を蹴り飛ばすためにどうすべきか相談する相手がいない。ところが、
――新しいご当主、前のご当主、ともに毛利家びいきです。この縁組は殿にとっても有難いことでは?
――後添えを迎えることは、亡き娘の遺志でもあった。もしも男児が生まれたならば……
と、ブレーンと舅はともに、昌典のためと思って、と前置きしながらそのような彼の意志を無視した曖昧な答え。ここはもう、新旧両「当主」に気に入られた毛利家に直談判する以外ない。
そう思って、毛利家が宿舎として使っている離れに向かう。
(国人風情めが……)
怒りのあまり、走るように先を急いでいた昌典は、回廊を曲がったところで誰かにぶつかった。
「無礼な‼」
そう怒鳴ったが、相手が女人だったから、相手にするのも馬鹿らしいとばかり、彼に跳ね飛ばされて倒れたその女に手を差し出した。この類の女房達というのは、最初から、昌興様は素敵な方、千寿様は可愛らしいとなぜかあの二人「だけ」を褒めちぎる者たち。ここでまた昌典様というのは人を突き飛ばしても平然としている冷酷非情な輩、などと付け加えられたらたまらない。
「お許しくださいませ。わたくしが、よく前をみていなかったものですから」
女は相当恐ろしい思いをしたのか、怯えたような声でそう言った。
「いや、私が急いでいたゆえ。すまなかった」
そう言って再び先を急ごうとした昌典は、ふと足を止めた。その女の顔に見覚えがあったのである。
「……篠……」
昌典はその場で、凍り付いたようになってしまった。
「いかがなされました?」
女の声が優しく彼の耳元を過ぎていく。
――殿、いかがなされましたか?
戦馬鹿の兄、卑しい身分の弟、年がら年中彼ら二人に腹を立て、朝から晩までしかめっ面だった昌典に、妻の篠は常に寄り添い、優しく声をかけてくれた。
「お前、私が後添えを迎えると知ってやはり傷ついたのだな……」
やや震えた声で言う昌典の前で、女は不思議そうな顔になった。

中庭の外れで、この一部始終を盗み見ている者がいるなど、昌典は夢にも思わなかった。千寿が、毛利元就に囁いた。
「あの絵姿だけで、よくもこんなにそっくりな女の人を探し出せたね。それに、今日ここを昌典兄上が通るってことも、よく分かったよね?」
「これこそ天が遣わせた采配でしょうなぁ」
元就がふふっと笑う。
「あんたって、文字通りのSランクだよね。こんなことになって気の毒だと思うよ……」
千寿がそう呟いた言葉は、謀神の耳には入らなかったようだ。なぜなら、彼自身、自らの最高傑作に酔いしれていたから。
昌興がかつて一度だけ、最愛の妻以外の女人を盗み見たのは、それが亡き妻とウリ二つであったから。千寿と元就はそんな事実は知らなかった。しかし、「狡賢い」彼らが知恵を絞って思いついたこの計略に、自称・策士の昌典はどっぷりとハマってしまったのだった。
亡き妻そっくりのその娘は、元就の実の娘ではなく家臣の娘。しかも女のほうも再婚だった。昌典がそれらのこまごまとしたことを知ったら、さらに激怒したはずだ。しかし、恋は盲目である……。
「まあ、『年の功』ですかな」
元就は偉そうに言った。
「千寿様がわしくらいの年頃になったら、どれほど嫌らしい爺になっていることか」
またしてもふふふと笑うその年寄りの後ろで、千寿は気を失いかけた。
(隆房様……千寿がこんな年寄りになっても同じように愛してくれる?)
しかし、その時には、隆房の年齢はさらにそれを上回る年寄りであると思い至ると、千寿はもうそれ以上考えたくなかった……。