第九十六話:優しい邪術

戦馬鹿筆頭・徳山隆幸は立ち往生した武蔵坊弁慶よろしく朝から晩まで昌興の寝所を守っていた。容体を確認し、治療する医者以外は誰も中に入れるな、というのが主の命なので、見舞いに来る重臣、政務の報告に来る昌典すら門前払いとなった。
それでも、昌典がいれば国は回るので、昌興の病状についてあれこれの噂が流れてはいたが、それ以外は常日頃と変わらぬ毎日が続いていた。一日に何回か、相良武任が様子を見に来て、隆幸の飲食を届けると同時に、昌典らの動きを知らせた。しかし、昌興本人には会えないので、隆幸に話したところで、あまり意味はなかった。
「殿はそれがしのことをお疑いで? あれらの美辞麗句で追従するだけの佞臣同様、それがしまで遠ざけるのでございますか?」
相良がわざと大声を出したが、中からは何の返答もなく、同じように隆幸に追い払われてしまった。
「お待ちくだされ。今回の話だけは、どうしてもお耳に入れたいのでして」
相良が隆幸に必死で頼み込んだが、この頑固者は梃子でも動かない。
「あとで後悔なさいますよ。それがしは何も殿と直接話したい、などと申しているわけではございませんでして。つまり、貴殿にお話があるのですがね」
「なに? わしに、ですと?」
今度ばかりは、隆幸もわずかばかりその仁王のような顔を相良のほうに向けた。
「つまりその、ご子息のこと、でして」
「な、倅の?」
隆幸はますます聞かないではおられなくなった。何しろ、この大騒ぎの中、直幸はある日突然、神隠しのように消えままだからだ。
「じつは……」
相良は隆幸に耳打ちした。
「何ですと?」
隆幸は目を白黒させたものの、やはりこの場を動くことはできない。
「これより先には誰ひとり通すわけにはいかぬが、それがしの目の前までなら」
隆幸はそう言って、ちらりと相良を見遣った。
少し経って、相良が再び現れた時、護衛の兵士らしき者を二名連れていた。
「えええ、徳山殿ほどの忠義の臣は、有川家広しと言えども二人とおられません。しかし、多少はお休みになられるべきかと、この者らをお供に付けますので、せめて少しその場でご休息を。では、それがしはこれにて」
相良がやたら大声で口上を述べる。その時二人の護衛は顔を隠していた笠をちらと持ち上げて、その素顔を隆幸に見せた。隆幸はそれが直幸と千寿であることを確認した。反射的に膝をつきそうになった隆幸を直幸が慌てて蹴飛ばす。
「な、無礼な、何のマネだ、この……」
「あわわ、なんという躾のなっていない者を連れて来てしまったものか……お許しを」
隆幸と相良、それに直幸とがもみ合いになっている隙に、千寿がちゃっかり室内へと消えた。

誰もいない部屋の中、一人横たわる兄の姿が目に入り、千寿は大慌てでその傍に駆け寄った、
「あにうえ……いったい、これはどうしたことですか。なぜ、こんなことに?」
昌興は横になったまま、こちらに向きなおろうともしなかったが、しっかりとした口調で言った。
「遅かったな。今か今かと待っていた」
「だって、兄上がこんなことになっているなんて、知らなかったもの」
千寿は涙をこらえながら言った。
「星が落ちるのを見て、兄上の身に何か起こったのではないかと心配で。だけど、毛利様と作戦の最中でその場を離れられなかった」
「星? ならば、そなたをここに招いてくれたその星とやらに感謝せねばな」
「違う。ここに招いてくれたのはあの、敷山多江。あの女、いえ、お姫様が来なかったら、今頃まだ宮島で神社巡りとかしていたかも」
「……」
敷山多江の名前が出たことは、昌興にとって意外だったようだ。そして、恐らくは、彼の病状を悪化させたかも……。昌興は半身を起こし、激しく咳き込んだ。
千寿は兄の背を撫でた。広くて、大きな背中。見れば見るほど涙が溢れて止まらなくなった。
昌興が口元を拭った布地に、べったりと血の染みがついているのを見て、千寿は気が遠くなった。しかし、ここで失神しては兄の力になるどころか、それこそ、ますます兄を心配させて病を重くさせる。
「良いのだ。この病のお陰で、お前がこうして戻ってくれたのなら。このことにも多少の意義はある」
「いやだ。そんなのいやだ。兄上の命と引き換えに戻るとか、ないから」
千寿は兄の胸に飛び込んで、泣き喚いた。これはいつも隆房のところでやっていることだったが、思えば敢えて兄弟間でやったことはなかった。

疲れたのか再び深い眠りについた昌興の横で、千寿はぼんやりと兄の言葉を思い出していた。
昌典は隆房を一日も早く造反させ、周防国内を目茶苦茶にするため、敷山城の引き渡しを手順を踏まずに強引に行った。案の定、隆房は激怒し、あのような予定より早い「独立」となった。毛利家との離間策は千寿が毛利元就憎しのせいで書いた偽手紙以外にも、大量に似たような書状があり、それらのいくつかは昌典一派の手になるものである。現状、いくつかの城は昌典一派が城主の地位についている、もしくは、半ば城主同然に振る舞っている。
それらの諸々は、千寿が想像していたことと同じだった。しかし、病に倒れた昌興が、まるでこの場に囚われてでもいるように一人孤立し、城の中は昌典一派に牛耳られている。誰が敵で誰が味方か、さすがの昌興も疲れ果てて見分けがつかなくなっていた。ここまでひどいとは千寿も想定外。城の中に入れたことじたい、「奇蹟」と言えた。偶然にも門から出てきた相良と行き会ったから、その随行員を装って相良の顔パスでなんとか強行突破したのである。
相良が本当に味方なのか、千寿にも今一つ信じられない。それは昌興も同じなので、相良は遠ざけられていた。しかし、昌典と役割が被ってしまうことで居づらさを感じる相良にとって、千寿に恩を売っておくことは取り敢えず「得」だったのだろう。
千寿から隆房も、毛利家も正式に「臣従」することを望んでおり、城外で待機していることを聞かされた昌興はたいそう喜んだ。だが、彼らの申し出を受け入れる条件は、千寿が昌興の養子となって、この家を継ぐことに同意する、というものだった。そして、それだけが、唯一この兄弟間の争いをとめることができる策なのだ、と兄は言う。
しかし、千寿にはあの昌典が、出自卑しい女が産んだ弟が家督を継ぐことを許すとはとうてい思えない。それに、何よりもまずは、兄の病を治すことだ。千寿は多江が言っていた「ピコピコ」を思い出す。何でもいいから、まずは兄上を救わなければ。もしもここに山田がいてくれたら……。千寿は大切な発信器を城外に置いて来てしまったことに気が付いた。鷲塚がすでに発信器のところにいる、などと城内の奥深くで、病臥する兄に付き添う千寿には見えるはずもない。