第八十六話:真説? 三本の矢

日光小粋旅館・高級スイートルーム内。
鷲塚昭彦は数日がかりで、髙祖帯刀の持ち物だった水没したゲーム機の修理を終えた。彼が黙々と作業を続けている同じ部屋で、木下綾香はタブレット端末に盛んに文字を打ち込んでいた。こちらも終始無言で、何やらイマドキ珍しい紙の書類をデジタル化している。
もしかすると、書類をスキャンし自動的に読み取るくらいの技術がないのか、未来の話なのに現代より遅れているとかあり得ないだろ? と文句をつけてくる若者がいそうだ。だが、考えてみて欲しい。デジタル図書館のデータがなにゆえ「プリント」という前時代的な方法で手渡されたか。
ご想像の通り、この時代はすでに完全なるペーパーレス化が実現されて久しい。紙とペンというものは、レトロを愛する文化人の一種のステータスシンボルでしかない。逆に、さらさらと紙にペンで文字を書いている人を見ることは極めて稀であり、ほとんど絶滅危惧種だから、すごいことだと尊敬される。何もかもデジタル化された反動で、たまにこうした懐古主義だか復古主義だかが流行る。
木下綾香が「紙媒体」で本を出したことも、凄まじい注目の的となり、人々は我も我もと買い求めるという謎の現象が起こった。ただ、紙媒体の本を買うことは多少贅沢ではあるがまだ可能。しかし、出版するとなったら、大富豪でもない限り不可能であった。
何から何までデジタル。紙に印刷できる特別な出版社は一社しかなく、需要も少ないから目玉が飛び出る金額でしか取引しないのである。デジタル図書館にしかない「プリンター」と「紙」も同様に貴重品である。だから、前回触れなかったが、大量に「プリントアウト」することも大富豪でなければ不可能。誰でもできることではないゆえ、デジタル図書館のデータはあまり流出せずに守られているとも言える。

綾香はそのプリントを黙々とデジタル化しているところなのだった。たぶん、あの山内美咲とかいう女性に見られたらこの不正がバレるが、あんな大昔の駄文、前にも後にも綾香以外、誰も検索しに行かないであろうから大丈夫だ。まあ、問題があるとしたら、彼女が掘り返したことによってこの駄文が「人気作品」となることだ。金と時間のある暇人が「盗作」ではないかと隅から隅まで調べたら、古すぎて盗作は時効だが、デジタル図書館データ不正流失云々の罪にはなるかも。
「いつまで文字を打っているんだ、君は?」
いつの間にか、鷲塚がゲーム機の修理を終えていることに気がついた綾香は慌ててタブレットを隠した。
「ダメよ。まだ見せる訳にはいかないの」
「お? ということは、やがては見せてもらえるわけだな?」
綾香はふふっと笑って、鷲塚が寝転ぶソファに腰掛ける。鷲塚は綾香に膝枕をしてもらい、その柔らかな感触に胸がドキドキするのを感じた。これぞ恋人どうし、いや、もうとっくに夫婦みたいだ。恐らくは、こんな感覚なんだろう。彼はそんなことを考えた。最初の子どもは女の子がいいだろうか、などと夢物語を始めようとした鷲塚の耳元で、綾香がとんでもない話を始めた。
「ねえ、三本の矢って話あるでしょ?」
「な、なに!?」
鷲塚はいきなりむくりと起き上がった。この夢心地に、なぜいきなり毛利元就の三本の矢など話題にするのだ? 千寿が聞いたら殺されかねない。
「嫌だ、違うわよ」
綾香は吹き出した。何が違うんだ、と言いかけて鷲塚は黙ってしまった。彼には綾香の心の中は見えない。しかし、彼女には彼の心の中が分る。千寿びいきの鷲塚が、毛利家の話題など出そうとした綾香を非難したのだと、一発で通じたのだろう。
「それで、三本の矢が何か?」
「これって、兄弟仲良くしなさいよ、って話よね?」
「らしいな」
歴史マニアではない鷲塚は関心なさそうに言った。
「思うんだけど、父親がこういう話をしたってことは、つまり、兄弟仲が悪かったからじゃないかしら?」
「ん?」
千寿が書いた毛利元就のニセ手紙が一通いくらか忘れたが、目玉が飛び出る値段で売れたとき、鷲塚は生まれて初めて「三本の矢」なんて話をきいた。それくらいどうでも良かった。ただ、例のゲーム機はプレイしていたから、どこかにそんな話もあったに違いない。何しろ、ゲーム運営は毛利元就を神がかり的に礼賛していたからだ。
綾香と鷲塚は直ったばかりの髙祖帯刀のゲーム機で、そのイベントを探してみる。すると、案の定、お人好しの長男が、武闘派の次男と知略派の三男に「陰で馬鹿にされている」シーンに続いて、父親が「三本の矢」を持ち出してくる設定になっていた。