「兄上ーー」
千寿は帰城した昌興の元に向かい、ねぎらうより前に、早速文句をつけた。
「山吹城をほったらかしにして戻ってくるなんて、死んだ義姉上だって喜ばないよ。だいたい、あの城はもう落ちてたのに。そこまではいいとしても、大内家と半年間の盟約を結んだというのは本当ですか?」
亡き妻との思い出に浸かっていた昌興は、本来なら誰も部屋に通さぬつもりが、溺愛する千寿だけは特別だった。
「このところ、立て続けに出兵しておるゆえ、将兵も疲れておる。暫し休ませてやるのもよかろう。皆にも家族があるのだ」
慈悲深く語る昌興を見て、千寿は昌典と全く同じ、軽蔑の眼差しを向けた。
「兄上の配下で、休みが欲しい、なんて思ってる人はいないよ。皆、早く次の戦に出たくてうずうずしているような連中ばかり……。大内も毛利も攻め込めなかったら、今度はどこへ行くの?」
昌興はそれには答えず、にこやかに言った。

「そなた、我が印を真似て、人材を集めるお触書とやらを張り出したそうだな?」

「あ……その……」

千寿はちょっと困った。本来なら首が飛ぶとしても、それは絶対にありえないはず。しかし……やはり、この行いには問題がある。何らかのお咎めは覚悟していた。

「おかげで、数え切れぬほどの優れた人材が集まったぞ。礼を言う。しかし、そなただけを特別扱いは出来ない」

「えーー!?」

頭と胴体が離れたら、もう隆房の愛は永久に戻らない……。こんな時にも、千寿の目の前には隆房の姿がちらつく。

「何をそんなに驚いておるのだ? 暫くは、部屋で大人しくしているように。これ以上、騒ぎを起こすな。それから、隆房殿は若山へ帰す。そなたは我が元に残れ」

「それは……」

「何か問題が?」

昌興にしては珍しく、厳しい表情になっている。

戦馬鹿などと弟に後ろ指を指されようとも、大内義隆ほどの間抜けではない。周囲で囁かれているあれこれの話は、きちんとすべてその耳に入っていた。千寿に関する陶隆房とのあれやこれやの噂話は、どれもこれも、将来この家を背負っていくべき一門衆の一人としてあるまじきことばかりであった。
とにかく、ここは家長として、大切な弟を真っ当な道に引き戻さねばならない。

「兄上、隆房様にはあれやこれや問題が……」

千寿は甘えた声で言った。これは、間抜けな義隆や愛する隆房の前で見せるのとは、また違う、自分を溺愛する父やこの兄と対話する時専用の甘えん坊の子どもバージョンだ。
「どうやら、色々と当家に不満があるみたいで、放っておくと危険なの。見張りが必要だから傍にいないと。それに、雲外門があれば、いつでも帰って来れるんだから、隆房様が千寿を盾にとって何か悪だくみをしようとしても無駄なの」
兄は厳しい表情を変えなかった。

「隆房殿は、我が家臣だ。隆房『様』という、呼び方は改めよ。たとえ、何か不穏な動きがあったとして、それを監視するのはそなたの勤めではない」

「……」

「そなたが、当家のために、幼いながら心を尽くしているのはよくわかった。これよりは我が元で優れた師について学び、より一層励むが良い」

「兄上、優れた師というのは誰の事ですか? 戦は兄上から、政は昌典兄上から学ぶ以上の良き師など、おられぬでしょう? 兄上は十四が初陣であったとか。兄上の元に置いてくださるのでしたら、すぐにも戦にお連れ下さい。必ずやお役に立って見せまする!!」

千寿は胸を張った。昌興の元にはどうせろくな軍師などいない。軍略は総大将である昌興任せ。あとはあれらの、暑苦しい連中の力によるごり押しだ。自分ほどの、兵法の知識があるものがほかにおろうか? 何しろ、あの山口館の書庫の書物はすべて諳んじているのだから。

しかし、昌興は千寿の話など耳に入ってはおらぬようで、何やら遠い目になっていた。

「兄上、どうなさったのです?」

「ん? すまぬ。そなたの亡き母のことを考えていた」

「え?」

それは、千寿にとって、「寝所の小僧」「公家の稚児」に次いで、決して聞きたくはない言葉の三番目「婢の子」であった……。しかし、これまで、昌興の口から、その卑しい言葉が出たことは一度もなかった。

「兄上、我が生母とは、どのような女であったのですか? 器量は良かったのですか?」

千寿は、無意識のうちにそう呟いていた。あの大内義隆が度々馬鹿にしつつ語っていたのが、「婢ごときが主の子をなしたのだ。それ相応の器量がなければ、寵を受けることなどあるまい」という、いやらしい言葉であったのだ。

「器量と言うより、気立ての良い娘であった……」

昌興は遠い目のままである。何やら自分だけの世界に入っていた……。

千寿はこの隙に昌興の元を退出した。