第三十五話:母の面影

>石見から戻った昌興はすぐさま、妻の墓がある菩提寺に向かった。本来ならば、新たに敵城を落としての華々しい凱旋のはずが、手ぶらでの帰還に城下の者たちはあれこれ噂し合った。それが、亡き妻への思いからであると知れると、またもや、様々な感動的な逸話が囁かれるようになった。

落とせる城を放置して戻った馬鹿者である、などと悪し様に言うものは、一人としていなかったのである。

だが、昌典や千寿の反応は全く別だった。先ずは、宇部の昌典が、一度の出陣にどれだけの兵糧と金がかかるのか、とブチ切れていた。

「一人先に戻って墓参りに行けばすむことではないか。あの馬鹿者は、常に本人が陣頭指揮を執らねば気が済まぬのか?」

茶室にて、心を落ち着けるつもりが、更に怒りが高まり、茶を嗜むどころではなかった。

愚痴だらけの昌典の前で、静かに茶をたてている男は、三枝道憲と言って、例の昌興の舅・三枝智頼の甥であった。つまりは、公家の一門という事になるが、装束も含め、そのような雰囲気はかけらもない。やや中性的なその容貌は、礼儀正しい所作とあいまって若い女のように見えたが、その眼付がいけない。これは、人を疑う事しか知らない策士の目である。

「昌興様には戦の事がまるでお分かりになっておらぬようですな」

「な、なに? あの戦馬鹿が、戦の事が分からないだと? あの男から戦を取ったら後に何が残るのだ?」

昌典は声を荒げた。

「まあ、落ち着いてください。只今の諸国の現状を見るに、殿があれだけの大兵力を動かして出陣なさるのは、効率が悪い、と申しておるのです」

道憲は淡々と語る。声まで女のようであった。

「効率が悪い?」

「此度の出陣は山口から五万の兵を率いておられたが、今ここ宇部にも五万の兵力がおられるのに、寝かしてあるだけです。殿が石見に向かっておられる間に、我らが九州の城いくつかを落とせば、天下への道はより近くなりましょう」

もっともな言い分であるし、昌典とてそのくらいのことはとっくに考えていた。しかし、声に出して言えないのにはそれなりの理由があった。

「人手が足りぬではないか。ここには隠居と我らくらいしかおらぬ。どうやって戦など……」

「昌典様自らご出陣なさればよろしいではないですか?」

「な、なに?」

武芸はからきしダメである昌典に、自ら戦に出るなどとんでもない恐ろしい話であった。

「私が城を留守にしたら、領国の経営はどうなるのだ? これだけの者を食わしていくだけで精一杯だ。戦に出る暇などないわ。まったく、人手がまるで足りぬではないか」

「山口に放った間者の報告によれば、あちらでは殿の命により、諸国から広く人材を集めているとか。既に、城下には職を求めて大量の浪人たちが集まっていると聞きます」

何と、昌典は兄の居城での情報を仕入れるために、「間者」を放っていた。

「人材を集める? そのようなこと、あの戦馬鹿が思いつくものか」

「私が思うに、これらはすべて、弟君の仕業かと。何やら知らぬ南蛮人に会うため、若山から山口へ入ったとの報告がありました」

昌典は更に立腹した。

「あの婢の子が……」

出自正しい名門から嫁いだ母を持つ昌典と、腐っても公家の三枝道憲とは、千寿に対する意見は完全に一致している。

「われらもその、人材とやらを集めてみたらいかがでしょう?」

「あんな小僧と同じやり方はせぬぞ。だいたい、こんな田舎の城で、どこに優れた人材など転がっておると思うか?」

「でしたら、やはり、我ら自ら出陣出来るよう、殿に意見すべきです。この際、九州の城は皆、我らの支配下に入れてしまいましょう」

「ううむ……。我らのような優秀な人材が揃っているというのに、確かに勿体ない話ではある。そなた、城中にすぐにも使えそうな戦馬鹿がおらぬか探してみてはくれぬか? 戦などそのような連中にやらせればよいのだ。我らは知恵を働かすだけで良い」

「そういたしましょう」

道憲は上品な笑みを浮かべ、昌典に茶をすすめた。