
義理堅い孝行息子、真面目一途な忠義の家臣、水もしたたるイケメン花若様
ご注意
これは「記憶だけをたよりに」書いている、リハビリ目的の記事です
※将来的に仕上がれば、この注意ボックスを外します※
※パーマリンクを下書き用のものにして、index も外しています※

売れもしないインチキな人物説明を書くことをやめない於児丸。俺のことを親父の仇とか、一門の恥さらしとか言ってるけどよ、一番恥ずかしいのはあいつ自身じゃないか。新介は於児丸を仲間扱いしてたいそうな伝記文をでっちあげるように言ったらしいが……。さすがに自画自賛はむりだったようで、雲隠れしちまった。仕方がねぇから、俺が代わりにやるぜ。
畠山家は三管領の一つ。つまりは名門だ。ここではその本家本元まで遡ることはしない。管領というのがどういうもので、なぜ三つの家が代わる代わるこの職についていたか、などもほかのところに譲る。於児丸の父親については別に項目を立てるので、重複する事態となったら再整理となる予定。
応仁の乱が終わったのは1477年。大内義興はその年に生まれた。於児丸は1475年生まれで、二つ年長となる。生まれた年を1475年とした根拠は事典。最初にことわっておくと、大内の連中と違って、その「関連人物」については一次史料とやらは無視されている上に、参照とされた書物も極端に少ない。

そんなん当たり前でしょ? 下働きの連中の分まで「資」料買っていたら、破産してしまう……。
二歳くらいの違いならほとんど同じ年。つまり、同世代だ。しかし、元より京と防長の地とで交わるはずもない二人を結びつけたのは、迷惑な流れ公方・足利義材だった。

余の流れ流れた一生の中で、見返り無しで心から尽くしてくれた、真の忠義者は尚順だけなのだ!!
結果的にはそう見えるが、実際のところ関係者の腹の内がどうであったかなど、誰にも分らない。
応仁の乱というのは、十年もだらだらと続いた、誰が何のために戦っているのか最後は分らなくなった……とか、あれこれつまらないことが言われている。全体像としては明確な目的は見えないのかもしれない。ただし、個々の参加者たちにとっては皆、きちんと理由があった。
大内政弘は1477年に、自らの所領安堵と官職そのままの約束を取り付けて本国へ帰っていった。最後までゴネていた人々が解散したこの時を以て、大乱は終結したことになっている。だが、個々の問題がすべてすっきりと解決したわけではないのである。
たとえば、畠山政長と義就。応仁の乱最初の戦闘は、上御霊社の戦いだったが、一番初めに衝突したこの二人は、1477以降も戦い続けていた。
大乱勃発前、畠山家は越中、紀伊、河内の守護職を所持していた。家中は政長と義就とで分裂していたが、二人仲良く所領と守護職を分け合うなんてことはできない以上、公、つまりは将軍権力が認めてくれた者が家督継承者となる。否認されたほうは不満があれば武力に訴えるよりほかない。当然、公権力を相手にするのだから「賊軍」になってしまい、なおも勝利して家督を奪い取ることは至難の業である。
とはいえ、絶対に不可能かというとそうでもない。大内家でも将軍バックアップを取り付けた側ではない者が当主となったケースがあったではないか。
畠山はどうなったか、と言えば、将軍・義政の態度もいい加減で、最初は義就、つぎは政長、またしても義就ところころ意見を変えたりしたものだから、両者の争いは終始がつかなくなった。それでも、大乱終結ということで、公では政長を認めたかたちで収まったはず。なのに、行き場をなくした義就が河内国を占拠してしまったことで、なおも戦闘が継続した。
義就は河内を拠点に領土を拡大しようとし、政長はそれをさせまじと踏ん張った。
どういうわけか、世の中皆、義就びいきで、戦争が強かったとか、ヒロイックな伝説となっている。しかし、軍記物の影響だかなんだか分らないヒーロー伝説はともかく、勢力としての両者は互角であって、それゆえにとうとうどちらかがどちらかを飲み込んで一門を統一するという夢が叶わなかった。
両勢力は押したり引いたりしながら、やむことなく戦闘を続けていたから、周辺の民からしたらえらい迷惑なことであった。誰もが知っている山城の国一揆は、ちょうど両畠山が対峙していたような時期に起り、「両方とも山城から出て行け」ということで、追い出されてしまった。
その後も小競り合いは続いていたと思われるが、もはや膠着状態だから、何となく河内は義就の王国みたいになって畠山領の中で「独立」してしまった。さりとて、みずからの王国の殻を破って飛翔するほどの力もない。戦に強いという義就は亡くなり、王国の主はその息子・基家に代替わりした。政長のほうも、管領としての仕事も忙しく、いずれは討伐しようと望みつつすぐには叶わなかった。
幕府のメンバーも大乱の頃から様変わりした。隠居した義政にかわって将軍の座に就いた義尚は25歳という若さで亡くなってしまい、後継者にはその従弟・義材が立てられた。義政にほかに息子がいなかったので、身内の誰かが代わりになる、いかにも普通の人事である。だが、義材の父・義視は応仁の乱のとき、西軍一派に「将軍格」として崇められていた人物だから、とっくに和解した過去の話、と思っても不思議な結末ではあった。
義材将軍が船出して間もなく、先々代の義政、実父の義視が相継いで世を去る。こうなると、政長は現在の幕府メンバーの中でかなり古株ということになる。自然と政治の中心のようなことになった。義材からも頼りにされたことだろう。
家は名門。父は管領。将軍様とは親しい関係。これで将来出世できなかったらあり得ないくらいの薔薇色。いっぽうの又従兄弟・義豐は河内で独立王国を築いていると言えば聞こえがいいが、実際には何の役にも就いていない身分。討伐されて然るべきである。やる気満々の将軍様は、六角征伐での成功がクセになり、政長親子が望むままに、この河内王国を潰すための第二の親征に出発する。
人は誰しも、何もかもが上手くいっているときこそ、気を引き締めなければならない。義材将軍と政長とは賊徒を討伐し、お家統一の宿願を遂げる日は遠からぬと祝杯を挙げる。何しろ、彼らは難なく義豐の城まで侵攻し、これを囲むまでこぎつけていたから。後は「落とす」だけである。
しかしながら、詰めが甘かったのか、相手ができすぎていたのか、事態は思わぬ方向に展開する。籠城中の畠山義豐は、絶体絶命のこの城が、じつは「けっして落ちない」ことを知っていた。彼にはこれ以上ないくらいの心強い援軍がいたからだ。
細川政元。奇人変人として有名なヘンテコな男は、かつて父・勝元が庇護していた畠山政長ではなく、敵対していた義就のほうにテコ入れした。代替わりして義豐の代になってはいたが、かつての東西陣営の組み分けから見たらおかしな展開だ。まあ実際、犬猿の仲となっていたのは勝元と山名宗全で、どっちの畠山でも、宗全の庇護下にないほうを手助けしただけだ。そこに感情的な問題など特になかったろう。そもそも、かつての東西にこだわるのならば、義材は政長ではなく、最初から元・西軍の義豐と組んだっていいくらいだ。
政元と畠山政長との不協和音はあった。年齢関係を整理しておくと、義材と政元は同い年である。細川家の筆頭としては幕府ナンバーワンになりたいところだが、年寄り風を吹かせる政長がのさばっていて邪魔な状態。そもそも、義材のことも気にくわなかった。政元は義尚の跡継として、義材ではなく、ほかの人物を推していたくらいだ。その意見は無視され、気にくわない将軍と邪魔な管領。面白くない。
細川家というのは元来こうした「いやらしい手」を好む。どこかに類似の人物がいたが、要は頭脳派的で、策略を使う。戦場で汗だくになって戦うのではなく、京で優雅な暮らしを送りつつ、「策略」で邪魔物を排除する。応仁の乱で政弘の伯父・道頓が叛いたのだって、出元はここだ。そんな切れ者の謀略の前に、義材も政長も霞んで見える。
ただこのような「いやらしい」(よくいえば聡明。細川家の嫡男を、聡明丸と呼ぶ)連中に対抗するのに、我々は摩利支天の化身・陶の城城主・弘護のように、忠義と義理人情に溢れた真の武人で対抗するしかない。
そうして、登場したのがこの人、我らのアイドル於児丸にほかならない!
これ以上ないくらいの萌え要素 これで全国区でないのは絶対何かがおかしい。
