簡略通史

大内軍記・其の壱

2022年3月17日

大内義弘公:アイカワサン様作

大内介と申し上げる方々は、百済国爾利久牛王の御子・琳聖太子がその先祖であり、本朝欽明天皇の御代に日本に渡り多々良浜に居住したのである。種々の珍宝を献上なさったので、多々良の姓を賜はり、多々良浜から、富田の奥の大内畑という所に移り、乗福寺に住んだ。今もこの地を大内といい、旧跡が残っている。

源平の合戦の時には、頼朝公の味方として参戦。大内権介多々良の宿禰と号し、四国・九国 の戦いで軍功をあげる。其の後、元弘・建武の乱では、大内介弘幸公と其の子弘世公父子は宮方について忠義を尽く した。
貞治の頃、弘世公が将軍家に帰順した時、長門には厚東と豊田、周防には山口などという宮方の大名がおり、数年にわたる合戦となった。弘世公はこれらを悉く追討して、次第に大身となり、長門・周防・石見、三ヶ国をその支配下に置いた。

康暦二年十一月十日に弘世公が亡くなり、其の子義弘公の時※、九州の宮方は一つにまとまって、中国へ攻め上らんとした。幕府は今川了俊 を大将として、討伐に向かわせたが、わずかに三百騎の小勢では敵うはずもない。この時、義弘公は十六歳、ご舎弟は十五歳であったが、京都から「合力すべし」との御教書が届いたので、大内権介義弘公は四千余騎にて九州へ馳せ向かった。了俊を 大将として、二十余年の間に、大事の合戦二十八ヶ度、終に九州を打ち平げて上洛し、明徳の乱 には自身粉骨を尽くした。
其の後、南朝の帝をいさめ申し上げ、南北の和談を調停なさったので、三種の 神器が京に戻った。義弘公の忠義はほかに並ぶものもないほどだったから、大国六ヶ国を賜ってその栄花は身に余り、上意を軽んじなさるところがあり、応永の乱を起こすに至った。応永六年十二月、天命尽きて堺にて亡くなった。

これより六代の孫・義興公の時、義尹将軍復職に尽力された功により、管領代の職に就き、従三位左京大夫に任じられ、長門・周防・但馬・石見・丹波・丹後、七ヶ国を領し、これより公家の列につらなりなさった。異国の帝も、大内殿の威勢をお聞きになって、勅使を遣わされ、日本から中国に向かう船は、大内殿の印封がなければ入国させなかった、ということだ。其の御子義隆公の代には、兵部卿従二位にまで官位を極められた。
その頃、京都は兵乱のため穏やかにお過ごしになれなかったので、二条殿・転法輪三条殿・持明院中納言殿、其の外の公家衆の方々も、皆山口へ下向なされたのだった。

※今川了俊が九州探題となったのは、弘世死後ではない。義弘が十六歳で探題を助けたことはどこかで見た気がするが、それは、お父上存命中の話である。とはいうものの、恐ろしくインチキなイマドキ語変換でも、上述のような流れのほうがカッコいいことは分る。軍記物ってこんな感じですね……。

ミル

途中かなりぶっ飛んでいるし、内容的に怪しいところも多々あったので、さりげなく無視した(省略した)。まあなんとなく、こんな風に「思われていた」んだ、ってことが分かればいいのかな、と思ふ。

参照箇所:『中国治乱記』より
※ヒント的に見たので、きちんと翻訳しているとかそういうことではありません。

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