推古天皇の十七年、周防国都濃郡鷲頭荘青柳浦の松の木に、星が降り、七日七晩に渡って煌煌と光を放った。
 地元の人々が、この奇怪な出来事を訝しく思っていたところ、神託があって、「近くこの地に貴人がお出ましになる。我は北辰にて、貴人の保護のためにここに舞い降りたものである」とのお告げであった。人々は、これはたいへんなことである、と社を建てて、その「北辰」をお祀りした。
 その神は「北辰妙見大菩薩」と呼ばれ、また降臨の地、鷲頭荘青柳浦は「降松」と名を改められた。
 それから二年の後、百済聖明王の第三王子・琳聖太子という人が、佐波郡多々良浜に現れた。人々は二年前の「貴人来朝」のお告げが正しかったことに、ますます妙見への崇敬の念を強め、また、太子もその言い伝えと己の来朝の符合とに驚かされたのである。
 太子は摂津国荒陵で聖徳太子に拝謁し、領地として、周防国大内県を下賜され、我らが大内家の祖となった。つまり、我らは百済の王族の血を引く者なのである。
 八代・正恒のとき、多々良姓を賜り、以来当代まで綿々と続いている。
 地元民の北辰=妙見への信仰は並ならぬものがあり、多々良氏においても、この妙見を深く信仰し、やがて「氏神」として崇めるようになった。元より、己が領地である大内の地には、琳聖太子が興隆寺を建立しており、子孫は氏寺としてこれを敬っていた。そこで、興隆寺がある氷上山に妙見社を勧進することで一か所にまとめることとした。
 妙見社の勧進は十一代、茂村の時と伝わる。これより先、多々良氏の隆盛に従って、氏神としての妙見社の祭祀もますます盛大なものとなっていったのである。

 なお、元々降松にあった妙見社は、桂木、ついで、高鹿垣と場所を移したが、山頂に建つ妙見社が放つ光の眩さが、船舶の航行に支障を来たすほどであったため、さらに鷲頭山へと移されていた。
 こちら、本元の妙見社に対する信仰にもぬかりはなく、一族の鷲頭家が引き続き、この社に奉仕し、手厚く祭祀を執り行ったのである。

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