およそ、名族というものについては、『家伝』や家臣らの手になる『日記』、『軍記物』の類が残されており、遥かに時を超えた数百年先の民が、「資料」として、歴史を知る手掛かりにそれらを用いている。
 『家伝』の類は、先祖代々受け継がれたケースもあるが、先は応仁の乱、それに始まる戦国時代、また、幸いにも長い戦乱の中生き残ったものたちも、第二次世界大戦の戦禍によって遂には喪失の憂き目に遭った。
 それでもなお、奇跡的に残された数々の資料の類が、現在、研究者たちの貴重な史料となっているのである。
 しかしながら、それとは別に、長い歴史の興亡の中で、家名が断絶し、それらの「資料」が受け継がれなかった家ももちろんある。更に言えば、元々、そのような『家伝』の類が編纂されてこなかったらしい家もまた、存在するのである。
 大内家ほどの名門に、今に伝わる正式な『家伝』がなく、それがゆえに、後世の学者たちは、その研究にたいへんに苦労している。
 『家伝』の喪失が、家の滅亡による悲劇によって散逸、もしくは何者かによって意図的に隠滅させられたものであるのか、そもそも、そのような書物を編纂するという企画そのものがなかったのか、それは分からない。
 しかし、我らが庭園の主・政弘様は、この現状を憂え、名のある他家には普通に存在していた、これらの書物をぜひとも大内家においても編纂し、その内容は他家においてそうであるように、大内家を称賛し、捏造も交え、とにかく神がかりなものとしなくてはならない、と仰せられた。さらに、付け加えると、いわゆる、古代の言葉で書かれている書物は研究者以外の者には理解不可能であり、下々の者もふくめて、より多くの民の間に、当家の威厳を知らしめるため、故意に「馬鹿でも分かる」ような簡潔な書式を用いることを命じられた。
 よって、平易かつ簡略な、大内家を絶賛する文書を捏造し、幅広く、世間一般の民に進呈することとした。
 なお、どういうわけか、それらの馬鹿でも分かる化の作業が、当サイトの駄文物書き、伊東愛の手に委ねられることになった。したがって、元々、捏造と神格化を加えた原文が、伊東の力不足により、さらに歪曲されることになる恐れがあることを書き添える。
 なお、本人は気付いた範囲で過度の捏造について注釈を加えるとしているが、これについてはおよそ信じられるべき言葉ではない。

 令和二年五月吉日

 編集委員:相良武任、有川千寿
 現代語訳・脚注:伊東愛
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