「大内義興伝奇」の記事一覧

大内義興イメージ画像

五社詣

 三月中には、岩戸城の政資、勝尾城の高経ともに敗走した。  入る城、入る城次々に落とされ、父子共々、肥前に逃げ帰り、千葉胤資が城主を務める晴気城に入った。これが、四月十四日。十八日にはここも落城し、政資は更に逃亡する。 […]
陶興房イメージ画像

忠臣の悩み

 帰陣した二人を待っていたのは、豊前守護代・仁保護郷であった。  去年の春、龍豊寺で邂逅してから、そろそろ一年になる。  興房と護郷とは、互いにそっと目を合せた。 「此度の合戦においての、そなたの活躍ぶり、目覚ましいもの […]
大内義興イメージ画像

遙かなる海の彼方

 その後、主従の姿は、博多・聖福寺にあった。  太宰府が学問、そして政治の中心地なら、博多は経済の中心地だ。この時代、全国一の国際貿易港であったのがこの博多である。ただし、単なる商売だけの町ではない。  蒙古襲来の後、博 […]
陶興房イメージ画像

安楽寺の梅

 西国九州といえども、なお肌寒い冬・正月。  梅の花がほころぶにはまだだいぶ間があったが、主従は二人して安楽寺に詣で、有名な「飛梅」を見物した。  太宰府は古来、「悉く朝廷に同じ」とされ、長く九州における政治と文化の中心 […]
大内義興イメージ画像

少弐討伐

 さて、山口を出た義興はまず、長門の赤間関に至った。付き従う軍勢は六万余騎。「六万」という数字は『肥陽軍記』という書物の記述である。研究者の先生方は、軍記物は誇張されていて、信用ならぬことがあると嫌う。歴史小説が史料たり […]
大内義興イメージ画像

時いたりぬ

 先の、大友政親の一件以来、義興は完全に意気消沈してしまっていた。政親が実子である親豊を手にかけたこと、命を奪われた親豊が義興の従兄であったこと、さらには、友好的であったはずの大友家が敵側となってしまったこと、どれを取っ […]