彼らは清々しい秋風のような人たちだった。
これは、尊敬する叔父、愛する友へのリスペクト。
大内家が最強だった時代の若き当主・義興様。
これは彼と生涯の友・陶武護、忠臣・陶興房らとが紡ぎ出した大内家が最も輝いていた頃の物語。
あるのはただの韓流時代劇的ブロマンス? いいえ、「完全なるノーマルです」。史実なんかどーでもいい、程度のインチキであることは認めますが……。
表紙絵:ロン様
彼らは清々しい秋風のような人たちだった。
これは、尊敬する叔父、愛する友へのリスペクト。
大内家が最強だった時代の若き当主・義興様。
これは彼と生涯の友・陶武護、忠臣・陶興房らとが紡ぎ出した大内家が最も輝いていた頃の物語。
あるのはただの韓流時代劇的ブロマンス? いいえ、「完全なるノーマルです」。史実なんかどーでもいい、程度のインチキであることは認めますが……。
表紙絵:ロン様
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その後、主従の姿は、博多・聖福寺にあった。 太宰府が学問、そして政治の中心地なら、博多は経済の中心地だ。この時代、全国一の国際貿易港であったのがこの博多である。 […]
西国九州といえども、なお肌寒い冬・正月。 梅の花がほころぶにはまだだいぶ間があったが、主従は二人して安楽寺に詣で、有名な「飛梅」を見物した。 太宰府は古来、「悉 […]
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九州での戦は予想していたよりずっと早くに始まってしまった。 火種を撒き散らしたのは、またしても、足利義材であった。明応五年四月、義材は、義興と豊後の大友親豊、そ […]