第二十六話:約束

外はすっかり秋の気配が感じられる。

この川面で舞う蛍の美しさを眺めていたのはいつのことか。

今や儚い蛍は皆その生涯を終え、来年になるまでその蛍火を愛でることはできない。

でも、あの日篠の心を迷わせたのは、蛍などではなかった。

そう、あの美しくも凜々しい陶様ではないか。

その陶様と文を交わし、その内容が次第に親密なものとなり、とうとう、こうして再び会うことになった。

何もかもが夢のようである。

もともと美女ではあったが、あまり美しく飾り立てるということをしない、控えめな篠であったが、その日は花に頼んで、精一杯めかしこんでいた。

自分ではよく分らないのだが、花がこのほうが良い、というのだから、これでいいのだろう。ほんのりと紅をさした篠は鏡に映る自分の姿を恥ずかしそうに見ていたのだが、花に手を引かれるようにして部屋から連れ出され、武護より早く約束の場所に着いた。

まだ半刻も過ぎていないのに、篠には既に半年くらい待っているのではないかと感じられる。

「本当に、この場所であっているの?」

篠は先程から何度も花に同じ事を尋ねていた。

「間違いありませんよ。先程の民家にも、この桜の木にも見覚えがあります。まだ着いたばかりじゃないですか。若様にはお勤めがあるのです。時間通り来れるかもわかりません。だいたい、私達、早く来すぎたんですよ」

「……そ……う」

思い人を待つ時間というのはこうも長く苦しいものなのか……。

普段からぼんやりの篠はまたも後ろ向きになり、もしかしたら、若様は来られないのでは? と思い始めていた。

「お嬢様!」

花の声に振り返ると、背後に待ち焦がれていた相手が立っていた。

「あ……」

夢にまでみたそのお姿は、それこそ、夢幻よりも遥かに凛々しい。篠は自分の想像力の拙さを恥じると同時に、夢ならぬ生身の陶武護の姿に、またも魂を抜かれたようになった。

「随分と待ちくたびれたように見えるが……」

武護がそう言って微笑んだ。

「あ、いえ、あの……今来たところですか……ら」

真っ赤になって俯く篠。いつの間にか、花の姿は消えていた。

「あ……あの、さ、最後の……お歌にお返事を……」

篠はしどろもどろになっている。

(最後のお歌だと?)

武護はのっけからこのぼんやりが気にくわない。新介は「美女」だと言ったが、どうせ月明かりの下、顔などよく見えないではないか。それに、たとえ多少不細工な女だとて、内藤家の娘ならどうでも良い。うじうじする女は面倒だ。さっさとやることをすませて帰りたい。ならば、行動あるのみだ。

武護は「お歌」とやらを気にする篠をいきなり抱き寄せ、その唇を吸う。

篠とて良家の娘である。いくら相手も身分ある家柄の男とはいえ、いきなりこんなことをされては、あまりにも無礼ではないか。しかし、そうは思っても文句を言うことは勿論、抵抗することもできない。何しろ、あまりにも臆病でひ弱な娘なのである。そして、やはり心底陶様を愛していたから、もう何をされてもかまわなかった。

しかし、さっとその唇を奪われただけで、武護はすぐに何事もなかったようにすらりとそこに立っていた。篠のほうは魂を抜かれてその場に頽れてしまい、武護に手を取られてやっと立ち上がることが出来た。

「最後の『お歌』への返事は今差し上げた」

「……ま、まあ……」

新介と篠の恋歌のやりとりは回を増すごとに濃密なものとなっていたから、最後の歌はかなり情熱的なものだった。しかし、新介はもう返歌を書いてはくれなかった。

しかし、歌など書けなくても、「行動」で示せばそれまでなのだ。

実際、篠はその熱い口づけが武護の思いをすべて物語っているのだと理解した。

「実はあなたにお願いがある」

「お、お願い……?」

「その前に尋ねておきたい。『縁談』が決まったと言っていたが、そのお相手は?」

篠はふっと溜息をついた。どうやらあの話は立ち消えになったのではないかと思う。父も母もあれ以来、一言もそんな話をしないからだ。かといって、二人が喧嘩しているのを盗み聴きした、と打ち明けた上で、その後どうなっているのかたずねる気もしなかった。でも、ここで、そんな話をしたら、陶様はどう思われるだろうか? 口から出任せを言ったと思われるのは嫌だし、だからといってこんな長い説明をするのも面倒だし。

「……その、わかりません」

「分らない?」

縁談の話は出た。それは新介から確認している。しかし、「先送り」になったというから、内藤家には伝えられていないのかも知れない。いや、縁談の話までは聞かされたはずだ。この娘の口から「既に嫁ぎ先が決まった」と聞いたではないか。だが、先送りになっていることで、弘矩が主から口止めされ、新介の名前までは出していないということか。要するに、嫁ぎ先が決まったから、身を慎め、とでも言われたのだろう。親なら当然そう言って釘を刺すはずだ。しかも相手が若子様であればなおのこと。武護はまったく話ができない篠に変わって勝手にそう分析した。