第二十二話:京の事情

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河内・紀伊・越中・山城の守護にして、幕府の重鎮である畠山家の主は確かに政長だったが、例の畠山義就は大乱中に山城の国をかき回し、またその後の国一揆などのせいで政長は山城の国を手放さざるを得なくなった。更に、大乱終結の直前には、河内と大和に攻め込んだ義就が政長配下の守護代を追い出し、これらの地を乗っ取ってしまったのである。

そんな義就と、細川政元は父・勝元の死後そそくさと講和しており、これらの行為を見許しにした。のみならず、この政元と代わる代わる管領職を務めつつも、政治の実権は大御所・義政やその代理である妻の日野富子らに握られており、政長にやれることは何もなかった。政長にとっては何とも面白くない日々が続いた。

そして、戦後十余年の時を経た今も、河内の地には未だに義就が居座っていたのである。幕府という公式機関から何の権力も認めてもらえていない、いわば無位無官の畠山義就が、厚かましくも、まごうことないこの地の守護である政長を差し置いて、不法占拠を続けていたわけだ。無論、政長自身はなおも、この義就から領国を取り戻そうとあれこれ抗争を続けていたが、何と言うか、戦上手な義就と政治畑の政長とでは相手にもならないのである。だから、今もって、河内の国を取り返さんという願いは実現していない。本当に、何もかもが思うに任せない。

敵の敵は味方とか。政元と気の合わぬ政長からしたら、政元が後継者に推す天竜寺香厳院・清晃ではなく、彼が推さなかったほうの義視父子に付くのは当然であった。ここには既に元「東軍」の誼も何もありはしないのだ。

同じことは義材の側にも言えて、父の義視は兎に角、彼には特に政長への恨み辛みもなかったし、むしろ、自分ではない人物を次期将軍に推していた細川政元は気に入らぬ相手だ。二人が歩み寄ることになったのは実に自然な事だった。これがまた、後に大きな火種をばらまくことになることなど、この新たな主従は夢にも思わぬのであった。

畠山家の当主・持国には子がなく、弟の持富を養子に迎えていたが、その後実子・義就が生まれた。この辺り、義視を次期将軍に、と約して京へ迎え入れた後、正室富子が実子を生んだ義政と似ている。持国は当然の如く、後から生まれた実子義就を跡継ぎとしてしまった。

だが、家中には既に、先に養子に入っていた持富を跡継ぎとして支える準備を整えていた家臣らもおり、ここで義就派と持富派との間でお家騒動が勃発した。持冨が亡くなった後、この争いはその子政久・政長兄弟に受け継がれる。

これに対して、将軍・義政のとった行動はと言えば、当初は義就の家督相続を認めていたのであるが、後にこの義就には将軍の命と詐称し勝手に山城の国へ侵攻するなど、目に余る行為が目立ったため、これにかえて政長(兄政久は既に死去していたため)を当主と認め、紀伊・河内・越中三か国の守護職を与えた。この際の、幕閣たちの態度であるが、皆当初より政長支持であった。

こうして、義就にかわり幕府内に席を得た政長は、管領を辞した細川勝元に代わり管領職に就くなどした。一方、京を追われた義就のほうは、吉野の山中に隠れ潜んだ。これだけなら、それこそ何ということもない「お家騒動」として、そのままどちらかが諦めるか、倒されれば終わりである。政長は幕府に認めてもらったとは言え、戦の才はからきしだから、互いに戦闘行為に及べば、簡単に討ち取られてしまっていたかもしれない。

だが、ころころ意見を変える優柔不断で気まぐれな将軍様や口うるさい幕閣の連中が、これらのお家騒動を放ってはおかないのである。しかも、お節介な介入はその時の彼らの人間関係によって大きく左右されるのだ。

この頃幕府内では、山名宗全と細川勝元が対立の色を濃くしていた。

元々、勝元は宗全の娘婿でもあり、更に、跡継ぎとして宗全の息子を養子に迎えてもいた。両者の関係は身内同士であり、そこそこ良好であった。だが、その後二人の関係は次第に険悪となり、やがて勝元は養子としていた宗全の息子を勝手に出家させ、かわりに同族一門から新たな養子を迎えた。要するに宗全との「手切れ」のアピールである。宗全は哀れにも出家させられた息子を呼び戻し、周囲は両者の関係が完全に決裂したことを悟った。

諸々の事情で一旦利害が対立すると、血を分けた身内であれ平気で殺し合う、そんな時代であった。姻戚といえどもつまらないことで即犬猿の仲と化す。

こうなると、共に政長を支持していたはずの両者は、それぞれが反目してしまったことから、勝元が政長を推すならばと、宗全のほうは義就支持に回る。