山口県山口市鋳銭司の周防鋳銭司跡とは?
名前の通り、お金を造っていた役所(鋳銭司)が置かれていた跡地です。現状はひたすらに何もない平地ですが、発掘調査の結果多くの成果が上がっており、国史跡に認定されています。
律令制国家の時代、十二種類の銅銭が造られましたが(皇朝十二銭)、周防鋳銭司はそのほとんどの鋳造にかかわっています。かつては各地に存在した鋳銭司ですが、最終的に周防鋳銭司が最後までその役目を全うしました。また、現在も「鋳銭司」という地名にかつての名残を留めているのは周防鋳銭司だけです。
周防鋳銭司跡・基本情報
所在地 〒747-1221 山口市鋳銭司 5015
出土品等展示 山口市鋳銭司郷土館
特記事項 国指定史跡
周防鋳銭司跡・歴史
和同開珎
大化の改新、律令制度の成立は古代史の大きな山場の一つです。しかしながら、古代史って異常に長いため、推古天皇や聖徳太子もそうですが、終わりは平清盛の頃まで続きます。となると、山あり谷ありで、ちょっと区切りがおおざっぱすぎると感じてしまいますね。
それはともかく、律令制度が成立し、さまざまな法律や制度が整備されたことは大きな転機であり、国家としての枠組みが完成したお祝いすべき時であったことは事実です。
次々と新しい決まり事ができていく中で、貨幣も造られるようになります。以前は、日本で最初の貨幣は「和同開珎である」となっていて、何でも記憶してしまう小学生時代に教わったので、今以て覚えています。しかし、現在ではこれより以前に造られた「富本銭」の存在が知られており、最初の貨幣という名誉ある地位は奪われてしまいました。せっかく奇蹟的に覚えていたのに。
それでもなお、和同開珎はそれが製造された年などとともに、今も要暗記事項であることにかわりはありません。
この頃、各地で金、銀、銅などが採掘されるようになりました。なかでも武蔵国の秩父郡でとれた銅が朝廷に献上されたことから、それを記念して元号が「和銅」と改められます(708)。同時に、国産の銅を用いた「和同開珎」の鋳造が始まるのです。
和同開珎を第一号として、国産の貨幣は全部で十二種類造られました。そこで、それらをまとめて「皇朝十二銭」とか「本朝十二銭」といいます。けれども、最後の乾元大宝が造られたのは958年のことで、してみると、国産の貨幣が鋳造されていたのはわずかに二百五十年間ということになります。
その後はどうなってしまったんだろう? お金が造られないなんて、何を以て取引を? と思いますけど、皮肉なことに、貨幣経済が発展してきた時、流通していたのは海外から輸入された銅銭だったりしました。輸入品の中で大きなウェイトを占めていたのがお金だなんて、なんともですね。
とにもかくにも、ここでは、国産の銅が献上されたこと、それにより、和銅と改元されたこと、それを機に和同開珎という貨幣の鋳造が始まったことが、重要事項とされています。というのは、あくまで受験参考書の話でして、もっとも大切なことが抜けています。申し訳な程度に、和同開珎を造った役所を鋳銭司といいます、と。
蓄銭叙位令
せっかく国産の貨幣を造り、これで大陸の進んだ制度のうち一つを取り入れたと喜んでいた朝廷の人たちでしたが、一般庶民は冷めていました。お金が発明される前、世の中ではどうやって「取引」をしていたのでしょう? それは物々交換でした。また、貝殻や布のようなものが、貨幣のかわりとして、欲しいものと交換するために使われていました。なので、いきなり、これからは貨幣を媒介にして取引をしましょう、と言われてもそう簡単にこれまでの慣習が改まるはずもありません。皆頑として、元通りのやり方を貫き(別に反抗的態度でそうしていたわけではないですが)、誰もせっかくの貨幣を使おうとはしません。
そこで、これまた要暗記事項ですが(年代も)711年、国は「蓄銭叙位令」なる法律を出しました。要は、お金を貯めた人には官位をあげます(なので、一生懸命貯めましょう)という法律です。貯め込んでしまったら、流通しないんじゃないかと単純に思いますが……。
(和銅四年二月)詔して曰く、「夫れ銭の用為る、財を通じて有無を貿易する所以なり。当今百姓、尚習俗に迷ひて未だ其の理を解せず、僅かに売買すと謂も、猶ほ銭を蓄ふる者無し。其の多少に随ひて節級して位を授けん。……」
参照:受験参考書
この法律に効果があったのか否か、参考書には書いてないんですよね。それで、『日本史広辞典』で調べて見たのですが、確かにこの法律により「初めて」官位をもらった人の例については記録があるようです。また、いくら貯めたらどのくらいの官位がもらえるのか、などについても表が載っていました。大量に持って行ったらいきなり高位高官になれる、というわけではありません。普通に当時のお役人の官位が徐々に上がっていくのと同じく、無位無官の人が何貫届けたら最低の位階が貰えて、その後も少しずつ届け続ければ、これだけで出世できるかもですが、そんな風にして立身出世した人の話はきいたことがありませんから、「効果は不明」というところでしょうか。
鋳銭司村と鋳銭司跡
『鋳銭司村 私たちの郷土』は鋳銭司の郷土史です。参考書も日本史辞典もびっくり仰天するほど、鋳銭司についての記事が詳細です。発行年度が古いため、未だに和同開珎が最古の貨幣ということになっていたりする部分はあるものの、和同開珎だの、皇朝十二銭だのにあれだけうるさい受験参考書類が、肝心の銭を鋳造する役所について、あまりにもさらっと行き過ぎているのが謎で仕方ありません。それゆえに、読み方すらわからないんですよ。
鋳銭司 じゅせんし
鋳銭司村 すぜんじむら
これ、鋳銭司はいちおう参考書にもあるため、読めたとして、なぜか地名として残った鋳銭司村のほうは「すぜんじ」と読むのです(※現在は村とは呼びません)。知らないでいて、「明日じゅせんしに行って、じゅせんし跡見て来ます」とか言っても、地元の方にすら通じない可能性が。
鋳銭司跡は、国史跡となっているため、大いに期待する方がおられるかも知れません。しかし、正直、ただの原っぱです。発掘調査の結果、さまざまな成果があがっており、それゆえにの国史跡登録ですが、跡地を見ただけでは何もわかりません。出土品は資料館(山口市鋳銭司郷土館)のほうに展示されていたりするようなので、それもあわせて拝見することにしてください。
鋳銭司と銅銭
鋳銭司は言うまでもなく、お金を造るところです。今風に言えば造幣局ですかね。参考書類にあまりに何も書かれていないため、『鋳銭司村』を拝見しましょう。この役所じたいは、天武天皇の頃からあったらしく(『日本書紀』による)
天武天皇の六年(六七八)、 「初めて鋳銭司を置く」という記事があり、さらに十二年には、「以後は必ず銅銭をつかえ、銀銭をつかっては いけない」という記事もあります。また、持統天皇八年(六九)には鋳銭司の役人を三人任命したことが書かれています。このような記録によって、そのころすでに、銭があったことがわかります。しかしその銭がどん な名の銭であるか。また日本で造られた銭か、中国から移入された銭であるかわかりません。
出典:『鋳銭司村』
皆さんが暗記している、和銅元年=708は、武蔵国から朝廷に銅が献上されたことをお祝いしての改元でした。しかし、『鋳銭司村』には、それよりもっと早く、文武天皇の二年(698)に、周防国からも朝廷に銅鉱が献上されたと書かれています。その時点で改元されず、武蔵国から自然銅が献上された時に和銅元年となった理由は、銅鉱と自然銅との差異が大きいということでしょうか。
いずれにしても、改元の年から、和同開珎が造られるようになったことは事実です。また、当然のことながら、鋳銭司が置かれていたのは周防国だけではありません。近江・河内・大宰府・播磨・武蔵・長門などがそれで、その辺りは辞典にはちゃんと載っています。歴史的には、おとなり長門の鋳銭司のほうが古いくらいです。ただし、現在に至るまで、鋳銭司という地名まで残っているのは、周防鋳銭司だけなんです。
記録の上では、和同開珎は上述の近江・河内・大宰府・播磨・武蔵・長門で造られていたとされているようですが、周防鋳銭司跡からも、和同開珎の鋳型が見つかっていることから、この中に周防を加えてもよいかもしれません。
このように、各地に存在した鋳銭司ですが、平安時代になるとほとんどが閉鎖され、最終的に稼働していたのは周防鋳銭司だけとなっていたようです。
皇朝十二銭
本朝十二銭とも。和同開珎から乾元大宝に至る律令国家が発行した十二種類の銅銭の総称。和同開珎・万年通宝・神功開宝・隆平永宝・福寿神宝・承和昌宝・長年大宝・饒益神宝・貞観永宝・寛平大宝・延喜通宝・乾元大宝の十二種類。私鋳銭の横行と貨幣価値の下洛に対処するため、改鋳がくり返された。奈良時代の三種は銅を八割ほど含む比較的良質のものであったが隆平永宝以降は改鋳のたびに品質が劣化し、銅と鉛を同量含むほどになり、形状も小型軽量化した。乾元大宝の発行を最後に国家の貨幣鋳造が断絶したのちは、平安末期に宗銭が流通するまで、交換手段として銭貨を用いない時代が続いた。
出典:『日本史広事典』
どこかで、皇朝十二銭をすべて表にしている参考書を見かけたような記憶がするのですが、そんなもの全部覚えたら崩壊します。基本は最初と最後でいいでしょう(超難関私大の人には責任もてないけど)。以下に表を載せているのは、覚えるためではありません。要は年代とか、大きさとか、造られた場所など、貨幣鋳造の流れを窺い知るためです。
個人的感想ですが、天皇さまの名前が載っていた(『広辞典』)のは有難かったです。要暗記の方々ばかり並んでいます。初めて見るお名前があった人はちょっと問題あるかも?
貨幣名称 | 原料 | 年代 | 天皇 | 期間 | 直径(㎜) | 重量(g) | 鋳造場所 |
和同開珎 | 銅、銀 | 和銅元年(708) | 元明天皇 | 52 | 24 | 4.1 | 近江、河内、武蔵、長門、大宰府、播磨、周防 |
万年通宝 | 銅 | 天平宝字四年(760) | 淳仁天皇 | 6 | 25 | 5.6 | 不明 |
太平元宝 | 銀 | 同上 | 同上 | 同上 | 同上 | ||
開基勝宝 | 金 | 同上 | 同上 | 同上 | 同上 | ||
神功開宝 | 銅 | 天平神護元年(765) | 称徳天皇 | 30 | 25 | 4.9 | 大和(田原) |
隆平永宝 | 銅 | 延暦十五年(796)から弘仁八年 | 桓武天皇 | 22 | 24 | 3.7 | 山城(岡田) |
福寿神宝 | 銅 | 弘仁九年(818)から | 嵯峨天皇 | 17 | 23 | 4.1 | 周防・長門 |
承和昌宝 | 銅 | 承和二年(835)から十四年まで | 仁明天皇 | 13 | 20 | 2.6 | 周防 |
長年大宝 | 銅 | 嘉祥元年(848)から天安二年まで | 仁明天皇 | 11 | 19 | 2.0 | 周防 |
饒益神宝 | 銅 | 貞観元年(859)から十一年 | 清和天皇 | 11 | 18 | 2.0 | 周防・山城 |
貞観永宝 | 銅 | 貞観十二年(870)から寛平元年 | 清和天皇 | 20 | 18 | 2.6 | 周防・山城(葛野) |
寛平大宝 | 銅 | 寛平二年(890)から延喜六年まで | 宇多天皇 | 17 | 18 | 3.8 | 周防 |
延喜通宝 | 銅 | 延喜七年(907)から天徳元年 | 醍醐天皇 | 51 | 18 | 2.6 | 周防 |
乾元大宝 | 銅 | 天徳二年(958)から応和三年 | 村上天皇 | 5 | 18 | 2.2 | 周防 |
参照:『日本史広辞典』、『鋳銭司村』
『広辞典』と『鋳銭司村』の表を合成して作成。なお、淳仁天皇時代の金銭、銀銭は皇朝十二銭には数えない模様(でも『辞典』の表には載っていたので)
『鋳銭司村』の解説に、「時代が下るにつれて大きさと重量が縮小され」「品質も次第に悪く」なっていったことが書かれています。これは『広辞典』の記述にある通り、改鋳をくりかえすたびに品質が劣化していったものかと。理由も書いてありますね。
周防鋳銭司の繁栄と終末
『鋳銭司村』の周防鋳銭司についての記述は、分りやすい上に、とても詳しいです。しかし、ここは貨幣の研究をするところではないですので、上っ面だけで十分としましょう。詳細は図書館に行ってください。ただ、原っぱの写真だけで、記事は書けませんから、ついでに古代の銅銭についても学んだ次第です。
周防鋳銭司の歴史をほんのさわりだけ紐解くと、まずは、その創立年代は不明です。和同開珎を鋳造している事実から、奈良時代には存在していたことがわかるくらいです。そもそもは長門国の鋳銭司のほうが歴史が古かった模様です。なぜなら、周防国から採掘された銅が、銅銭の製造に使えるかどうか、長門国に送って試してみたという記録があるからです。
同じく、天平九年(737)に鋳銭司の役人を十人から十六人に増やしたとされ、この時、周防に鋳銭司ができたゆえにではないのかという説があるそうです。正確に「周防鋳銭司」という名前が確認できる最古のものは、天長八年(831)に周防鋳銭司長官の任期について記した記録だといいます。
天長四年(827)くらいに、長門にあった鋳銭司は周防に移転したようです。その位置はなんと、正護寺の前辺りと考えられているそうです。以来、ほかの場所でも銅銭が造られた記録がちらほらと見受けられるものの、基本は周防鋳銭司が長期に渡り最も繁栄した貨幣鋳造の役所であったことは間違えない模様です。
その理由は、以下の二点に集約されます。
一、付近から原料(銅)が採れた
一、交通の便がよかった
当初、周防鋳銭司ではたいへん多くの銅銭が造られていましたが、時代を経るにつれて、銅も枯渇し、改鋳に用いる古い銅銭も減ったので、鋳造量はどんどん減らされていきました。その頃には、鋳銭司の場所も変っていたようでして、正護寺の前ではなくなりました。
結局のところ、律令制度の崩壊とともに、国家主導の鋳造事業など予定通りに進められなくなっていたということでしょうか。そんな折に、天慶の乱が起こり、藤原純友によって荒らされた鋳銭司は焼払われてしまいます。お金を造っているところなんてきいたら、盗賊どもに目を付けられないはずはないですからね。しかし、意外だったのは、それが周防鋳銭司の息の根を止めたことにはならなかったという点です。盗賊による乱暴狼藉の後、鋳銭司を元通りに復活させる力は国にはなかったようですが、それでも最後の皇朝十二銭乾元大宝は、この焼討ちの後に造られているからです。
それ以後長きに渡り、国産の貨幣は用いられなくなりましたので、周防鋳銭司も静かにその役目を終えたのでした。
周防鋳銭司跡・みどころ
みどころというか……単に原っぱです。これを見て、古代史浪漫に浸れる人かどうかは、人それぞれです。そもそも、古代史や貨幣鋳造に関心がない方には、本当にただの……。
案内看板
正直、これがないと、ただの工事現場(何かを建てるために確保してある空き地)にしか見えません。何かを期待して行くと裏切られます。
「国指定史跡
周防鋳銭司跡
昭和四十六年三月十一日指定
ここ山口市鋳銭司の地名は、古代日本の銭貨生産を担った官営の銭貨鋳造機関である鋳銭司が置かれたことに由来 します。鋳銭司は、文献史料から、河内国、山城国、長門国、 周防国などに置かれたことがわかりますが、それが地名と して残っているのは、ここ鋳銭司だけです。
周防鋳銭司は、「類聚三代格」によると、天長二年(八二五)に長門国から移設されたとあり、それ以降、十一世紀 初め頃までの約二百年間、唯一の鋳銭司として存続します。 奈良時代から平安時代にかけて日本で生産された、いわゆ る「皇朝十二銭」のうち、富壽神寶から乾元大寶までの八種類の銭貨を生産したと考えられます。
これまでの発掘調査で、史跡の東南部を中心に、銭貨鋳造工房と考えられる建物跡や、鋳損じ銭、銭貨鋳造に使っ た鞴羽口・坩堝のほか、木簡などの遺物が見つかっていま す。出土品の一部は、山口市指定文化財となっており、山口市鋳銭司郷土館で展示しています。
注意事項
指定区域内を発掘したり遺物を持ち帰らないこと
二指定区域内にごみを捨てないこと」
(看板説明文)
景観
とにかく広いです。貨幣の鋳造って場所をとるんですね。そもそもどうやって造るのかさっぱりわからないし。陶陶窯跡のような目に見える形のものが何かあれば……とちょっと残念に思いました。
じつは、発掘調査の成果などは、鋳銭司郷土館にお伺いすれば拝見できるのですが、確か、休館日だったかと(すぐ隣にある感じではないのが、ちょっと困るんです)。
周防鋳銭司跡(山口市鋳銭司)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒747-1221 山口市鋳銭司 5015
※Googlemap にあった住所です。
アクセス
最寄り駅は「四辻」です。周辺にみどころは大量にあるので、原っぱだけのために来ることにはならないので、問題ありません。しかし、観光資源と観光資源の間がとても離れていますので、朝一から回って午後にはクタクタとなります。すべて消化するのはむりです。また、たの多くの同様の国史跡と事情は同じで、発掘調査の結果は地下に保存されていますので、現地に行ってもなにもありません。そのため、鋳銭司郷土館にて、出土品の展示などを拝見することになりますが、この郷土館と鋳銭司跡が四辻の駅を挟んで正反対の位置関係です。たいして遠くはない(感じ方には個人差があります)ものの、すぐとなりに資料館がある、というような配置にはなっていないことには注意が必要です。
遮る物があまりないので(202310現在)所在地は見付けやすいです。しかし、看板を見落とすと通り過ぎてしまう可能性があるので、気を付けてください。
参考文献:『鋳銭司村 私たちの郷土』、『日本史広辞典』、現地案内看板、受験参考書
周防鋳銭司跡(山口市鋳銭司)について:まとめ & 感想
周防鋳銭司跡(山口市鋳銭司)・まとめ
- 奈良時代、武蔵国から自然銅が献上されたことから、和銅と改元され、国産貨幣和同開珎の鋳造が始められた
- 貨幣を造る役所は鋳銭司と呼ばれ、各地にあったが、最後まで稼働し、地名にもその名が残っているのは周防鋳銭司だけ
- 周防国は自ら銅を採掘でき、交通の便もよかったことから、周防鋳銭司はかくも繁栄したと思われる
- 奈良時代から平安時代にかけて、律令国家は十二種類の銅銭を製造。皇朝十二銭という。その多くに、周防鋳銭司もかかわっている
- 残念ながら、創立年代などを明らかにする史料は今のところなく、奈良時代の記録にその名前が確認できるのが最初。ただし、周防より先に、長門に鋳銭司が置かれており、やがて廃止されたらしいことが分っている
- 律令制度が崩壊して行くにつれ、国家的な貨幣鋳造事業も廃れていく。藤原純友が反乱を起こした時、鋳銭司も焼払われてしまった。その後、復興されることはなかったが、それでも、最後の皇朝十二銭となった乾元大宝を製造している
- 現地はただの一面の平原でしかないが、発掘調査の結果さまざまな成果があがっており、それらは山口市鋳銭司郷土館で見ることができる。逆に、それを見なければ、ただの原っぱを見ただけに終わる
ただの原っぱです。これに古代史浪漫を感じられるかどうかは、個人差があります。そもそも、ただの原っぱであることは、最初から知っていたので、たまたま矢印がそちらへ向かっていたので立ち寄ったに過ぎません。全国各地にこのような状態の遺跡は数多く、居住地付近にもございます。やはり、国指定史跡なのですが、見た目はただの原っぱです。
このような場合、出土品などの見学が大切です。貴重な遺構は発掘調査の後、埋め戻されて保存されていることが多いからです。むろん、実際の位置関係、付近の風景などを見ておくことも大事ですから、ただの原っぱなどと言わずに、現地にも行かねばなりません。
やや距離があるものの、陶陶窯跡と鋳銭司跡をセットで見学すれば、古代史浪漫の旅が完成します。
こんな方におすすめ
- 古代史に興味がある人
- 考古学的発掘調査などに興味がある人
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
何もないよね? また見落としたのかな?
お前たち、鋳銭司郷土館に行っていないではないか。貴重な出土品などはそちらにある。
お前に言われたくないよ。俺は古銭よりQRコード決済派だ。たとえ原っぱになっていても、ここが元、鋳銭司だったという事実が大事なんだよ。現地に行ったということが貴重なんだ。
ナニコレ、ただの原っぱじゃん! どこにお金の痕跡が!? 和同開珎の出土品とか、どこ!?
鋳銭司郷土館にあるはずだ。人の話をちゃんと聞け。
ええっ、また鋳銭司来るの? 遠いんですけど。あああ、陶にも大量に見落としあったんだった。疲れた……。JR さま、山口線の本数増やしてください! 陶まで直行便出して。いったん新山口出るの、マジ面倒……。
タクシーを使えば? 君たちの強行軍は毎回、かなり辛いはず。見てるこっちまで疲れてしまうよ。
どうせ、新介さまのようなやんごとなき身分ではありませんから。鶴ちゃん同様、無一文なんです!
(誰一人俺の話を聞いてないなんて、あんまりじゃないか。もう、世話係はクビだからな)
鋳銭司郷土館はこちらです。開館時間や休館日をご確認の上、必ずお立ち寄りください。
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五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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