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50年区切り年表 前史~弘世期まで

2021年6月30日

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ご注意

※こちらは削除準備中の過去記事です ⇒ りにゅーある版はこちらです「大内庭園全年表

注意書き

何をやるにも年表がないと気持ち悪い。
さらにその年表がカンペキじゃないともっと気持ち悪い。
だけど、そんなものを作るのは不可能である。

以下は、新介様の勉強会でまとめられたもの。

まずは『大内氏の世界をさぐる』(勉誠出版)という書物を読んだときに作成した読書ノートから「年代」が書いてあるものを何でもPickup。
そもそもこのご本が、大内歴史文化研究会所属の先生方複数人がお書きになったもので、年代には微妙にズレがある(○○頃、約何世紀のような曖昧表記の部分中心)ため、そこは敢えて表記が二重になっている。
他の書物をつまみ食いしたせいで二重になったケースもむろん。

さらに重大なことは、読書ノートに正確に書いたかどうかわからない。

読み返すたびに直しているから、つど正確さは増すだろう。
(そのくらい、何度読んでもためになるご本)
ただし、新介たちの読書量が増えるにつれ、さらに混乱するはず。
細かい年代には、諸先生方でご意見が分かれているケースがあるから。
また、通説、俗説の類、については正解は出せない。

なので、ここは現状、一読者が時系列で覚え書きを記しているに過ぎない。
この時点での掲示はかなり問題があると感じたが、冒頭書いたように、まずは年表がないと、これ以上進まないので。

今のトコロは中身が薄いので50年区切りで溢れることはないだろうと推定。
ただ、後ろへ行くに従って膨張するので、分け方が妥当かは今のところ不明。

1350年まで

609推古17周防国鷲頭庄青柳浦に北辰降臨。
下松浦と呼ばれるようになったその地に妙見菩薩が祀られる
※1
611推古19琳聖太子が来日 
1151 多々良氏、御堀村字菅内に仁平寺を創建。五重塔婆も建てられていた。 
1152仁平28月1日「周防国在庁下文」に3名の多々良姓の者が署名。※2
1182養和24月28日付「周防与田保内野寺住僧弁慶申状案」(東大寺文書)に大内弘盛(大内祖)が「権介多々良」と署名「周防権介」任官はこれ以前と考えられる。
朝廷の県召除目などを経たものであったかは不明。
1186文治2周防国、東大寺造営料国に※3
1200正治211月「周防国阿弥陀寺田畠坪付」に散位多々良盛綱、権介多々良弘盛が署名弘盛は大内氏系図にもその名が見える人物
1254建長6円政寺金鼓銘文に「山口」という地名が初めて登場。 
1333 鎌倉幕府滅亡⇒建武政権 
 鎌倉幕府滅亡後長門を掌握したのは長門を本拠とする厚東氏。15世紀から大内氏
1334建武元年乗福寺が勅願寺となる 
1338建武5室町幕府成立、南北朝動乱
乗福寺、諸山昇格
 
1341暦応4「氷上山」火災(『大内妙巌書状』)伝承によれば、興隆寺の創建は古代。確実な史料初見はコレ。つまり、これ以前から存在。
1345貞和元年乗福寺、周防国利生塔にあてられる早くから重用された寺院だった証
1349貞和5足利直冬、長門探題に。
大内弘世は直冬方につく
 
 貞和5~貞知2(1363)大内弘世帰順まで15年間大内、鷲頭両者とも直冬方と与した時期あり。
いずれも直冬勢力にうまくのり幕府に従うことなく地域支配権力を扶植していった。
 

前史・ミルのひとこと

※1 推古○○年は、大内氏創作先祖伝説によるご先祖様来朝の年。これが「史実ではない」ことは、明らか。

※2 先祖伝説が作りものである以上、真実はどうだったのか「わからない」。諸先生方のご研究で明らかになったのが「周防在庁官人」だったこと。掲示された年代は、どの本でも取り上げられているメジャーなもの。
ぶっちゃけ普通に力をつけて勢力を拡大した在地領主で、どこにでもあるケースだろう。

※3 周防国が東大寺造営料国になった事実は、今後も地味に重要となるから、覚えておこう。
周防国衙支配:東大寺大勧進がトップ。現地に目代を派遣するかたちですすめられる。
鎌倉時代後期、大勧進・心源と在庁官人たちとが対立。
後者の筆頭であった大内重弘は「秘計を巡らせて公家の朝儀」を動かし、心源を罷免に追いんだ。

ポイント

大内弘世の頃、すでに周防国で一番の実力者となっており、その後長門も飲み込んで、防長の支配が確立する。

ポイント

一族内部に、鷲頭家との惣領争いがあり、外部に長門・厚東氏との勢力争いがあり……で、いずれをも有利に進めるために立ち回った。

ポイント

足利直冬⇒南朝+直冬(弘世)⇒幕府と巧みに与する相手を変えている。

1370まで

1352 観応の擾乱大内弘世は、一族長弘について直冬に従い、この頃、南朝に属して周防長門を傘下に収める
1354正平9足利直冬派に属していた大内弘世が直冬ともども南朝にくだる(諸説あるが、正平9から18のあいだ)。北朝年号の終見は観応3(1352)、南朝年号の初見は正平9(1354)。
1354正平9=文和3ごろ長弘系統と重弘系統による守護職と惣領権をめぐる一族間の争いにいちおうの決着がつく。このころまでの政治支配組織はあきらかではない。
1355正平10長門進出を開始 
1357正平12凶徒退治願い文を住吉社へ奉納この時点で長門瀬戸内沿海部掌握。
1360初 宮方(征西府方)として門司出兵。 
1362正平17菊池に呼応し九州出陣。ここで一敗後、北朝側に降る
1363貞治2、(正平18)9月、南朝離脱。北朝に転ずる。
幕府より周防・長門守護を安堵され室町政権化。
九州探題・斯波氏経を助け豊前出兵。
益田兼見(直冬方)に幕府奉書を送り、味方に転じさせ石見の直冬方勢力を攻撃させた。
周防・長門守護をかねる有力者として北朝方に。
1363頃 北朝に転じてより、公家と接触する機会が増える
1364 当時は征西府が優勢で斯波氏経は陣を放棄して帰京。弘世も撤兵。豊後豊前の武家勢力は赤間関へ避難。
九州出兵失敗後、弘世は石見安芸への侵出をはかった。
11月15日、防府天満宮本殿再建
このとき赤間関はすでに弘世の勢力下にあったと思われる。
防府天満宮再建事業(1378まで。大殿再建、遷宮、拝殿再建、楼門、廻廊再建)。以降11年間、防長重要寺社の復興・発展同時進行的に相継ぐ。
1365 防府天満宮:6.3、上棟 6.11、 遷宮
長門二宮:2,21、再建開始
12,20付後光厳天皇口宣案、従五位上昇進。
転向に対する恩賞か?
1366貞治5上洛した弘世は京都で多くの「新渡の唐物」を贈答し勢力をアピール。
石見守護兼任。
7月、石見進発。益田兼見を従えつつ直冬方勢力を攻撃。安芸大田にも攻め入った。これにより石見南北朝内乱は終焉する。
※すでにこの時点で大内氏は領国内の国人に大きな影響力をもっていた。
1367 弘世、父・弘幸菩提所・永興寺を諸山に昇格させる。
6月、長門二宮遷宮
1378まで、長門一宮本殿拝殿再建、楼門再建。長門二宮再建開始。
1368 中国:元⇒明 明洪武元年(1368)~倭寇討伐可能な勢力と交渉するため毎年日本に使節を派遣。「華夷思想」:朝貢と海禁。
1369応安2氷上山発展事業開始(1378まで)。
延暦寺鎮守日吉社二宮より山王社勧請。
明治42(1909)御堀神社へ合祀して廃絶。
本殿基壇跡(幣殿、拝殿痕跡無し)
1370 3,11、長門一宮遷宮:宝殿・申殿遷宮、御供所・横殿・廻殿の仮設
明の趙秩(『山口十境』の作者?)、楊載、朱本 征西将軍懐良親王と交渉、遣明使派遣に成功。
趙秩らは、三年間博多に滞在した後、上洛しようと山口へ。約一年滞在。

1370まで・ミルのひとこと

なおも南北朝動乱の最中。

※ 大内弘世は北朝側につき、一族・鷲頭家との対立に終止符、長門・厚東氏も打倒して地位を安定させる。

※ この頃はまだ、南朝征西府が頑張っていて、幕府の支配は九州まで及んでいない。弘世の目は九州よりむしろ、石見や安芸に向けられた。

※ 支配領国内の寺社整備(復興、発展策)を積極的に行った。

※ 上洛した弘世が唐物をばらまくエピソードは『太平記』でも有名。この頃からすでに潤っていたことがわかる。

ミル不機嫌イメージ画像
ミル

まさに金ピカ大名。なにゆえここまで潤っていたのか、それを明らかにするのが新介の役目だ。

1380まで

1371応安43,16 興隆寺仁王門釿始

 

今川了俊下向。

安芸国所領についても遵行を行うようになっている。

了俊九州入りは弘世義弘父子とともになされた。今川了俊の九州での活動の前提には大内氏の支援が存在。中国地方を後背地として押さえたこと、大内氏の協力を得たことで成功。
1372応安58月、太宰府陥落後、大内軍引き上げで了俊一時苦境に。 
1373 興隆寺仁王門移設再建 
1374 7.2、興隆寺上宮釿始 氷上山境内妙見社の作事開始。 
1375永和元年水島の陣後、劣勢となった今川軍挽回。義弘支援によるところが大きい。

 

興隆寺:8.6、下宮上棟、8.10、上宮立柱上棟、10月、上宮遷宮
防府天満宮:8.10 拝殿再建

 
1376永和2 この頃、平井俊治や平井道助(祥助、俊治と同じ人物かも)が在京雑掌※1の任
1378永和4防府天満宮:楼門、東西廻廊等再建
2月、義弘、祖父弘重菩提所・乗福寺の仏殿に碑文
6月、今川了俊、使僧信弘に69人の軍勢を率いさせて倭寇を捕らえる。大内義弘もこの時軍勢を派遣。
8.25 長門一宮楼門再建
氷上山十坊確立。氷上山境内の規模や寺僧組織が改められ拡充された。
碑文の存在から、この時乗福寺仏殿が改築された可能性大
氷上山十坊体制確立、防府天満宮楼門再建、長門一宮楼門再建「三事業」を一斉に行った。
※弘世寺社行政はその後も分国のあちこちで同時並行的に推進された点に特徴。
1379永和5一族多々良弘保受領転任のとりつぎを三条家※2に依頼
5月、朝鮮史料に「大内」初出:韓国柱が大内義弘に直接禁圧を要請。義弘は朴居士に186人の軍勢を率いさせ、朝鮮に派遣。高麗側の救援が得られず倭寇に大敗。
この後、高麗通交は今川了俊の独占となったとみえる。
高麗には大内氏が実力ある勢力との認識があり、韓国柱派遣となったのだろう。義弘の軍勢派遣は韓国柱の帰国と同時期であり、その要請に応えたものと思われる。
1380康暦2弘世死去。
豊前守護となったのは義弘代
後継者を巡り義弘、満弘兄弟間で争い。
5月、義弘、益田氏領の守護使不入を認める。
惣領を巡る義弘と満弘の対立。
5月、安芸国内郡および長門栄山にて義弘と満弘合戦に及ぶ。満弘方長門守護代・杉浄智、石見守護代・鷲頭美作守、「芸州大将」讃井山城守。大内氏を二分した内戦。
弟満弘と内戦中の義弘は父弘世の菩提寺乗福寺を荘厳化することで正統な後継者であることを宣伝。

1380まで・ミルのひとこと

※1 在京雑掌:大内氏京都代官。当時、当主は基本在京だったが帰国することもあったし、内訌勃発や幕府の命を受けて九州出陣など京都不在期間も長い。そんなとき、幕府との折衝をするためにいたのが、これらの人々。管領、奉行人などと直接交渉を行う窓口的な役割を果たしていた。大内家守護職や国人層の本領安堵など大切な事案も扱うので、たいへんに重要な役割だった。

※2 転法輪三条家:三条家の家領荘園(深川荘や日置荘、大津荘)が長門にあった。その縁で、大内氏と三条家の関係が深まる。
三条公忠と弘世:荘園経営のためには、現地を統治していた大内家との交流が不可欠。荘園経営といういわば「経済」的な関係から出発した両家の関係は、三条家の者が折衝のため度々長門に下向するたびに深まって行ったと思われ、後には「政治的便宜供与」や「婚姻」にまで発展する。
弘世の妻は三条家出身(盛見母と思われる)。
その後も両家の関係は続き、三条家は大内家と朝廷とのパイプ役としての役割を果たした。

了俊下向

九州平定のため、今川了俊が派遣されてきた。
着到直後は、弘世、子息・義弘のバックアップなしではなにもできなかった了俊だが、やがては九州平定に成功。朝鮮交易を独り占めしたりずうずうしい。

寺社政策

弘世の寺社整備はなおも続いていた。
地元の神々を敬い、神社の整備をすることは、神職はもちろん、神々を崇める地元の民にも喜ばれる大切な事業。
祖先にまつわる菩提寺の整備は、ひいては権力の正統化にもつながるもの。
いずれにせよ、支配領国の権力基盤を固めていくためには、寺社政策は必要不可欠。逆に言えば、ある程度の勢力基盤、経済力がなければ、こうした事業は進められない。
すでに、大掛かりな政治事業を進められるだけの力を持っており、それを推進することで、権力のさらなる安定化を目指したといえる。

朝鮮との交流の始まり

大内氏と朝鮮との関係は長期にわたりとても重要なポイント。祖先伝説にも深くかかわってくる。
この時点では以下二点

一、朝鮮側は常に「倭寇」問題を重要視。日本の政権トップが誰であれ、とにかくすぐにも助けてくれる勢力のほうが大切。だから、この頃まだ九州での支配を確立していない幕府中央よりも、九州のことを任されている今川了俊との関係こそ大事。その了俊の勢力も、派遣当初は弱弱。大内家(主に義弘)のサポートなしでは何もできないものだった。やがて地盤を確立すると文字通り「九州探題」としてこっち方面の顔に。それゆえ朝鮮も了俊を交流窓口とした。
当初は了俊以外の実力ある人々とも接触していた模様で、大内義弘が朝鮮に倭寇禁圧軍を派遣したことなども、朝鮮側より「助けてくれる」勢力と認識されていたからと思われる。史料外の交流も数多くあったかも。
ただし、その後交流が途絶えるのは、了俊が「独占」したせいだろう。

二、朝鮮との交流を示すものとして、乗福寺伽藍に朝鮮風の瓦(桶巻瓦)が使われていたことが分かっている。これらはかつての乗福寺跡地の発掘調査から見つかったもので、年代測定の結果、1374―97頃に制作されたものだとされた。この年代は義弘代と重なる。王室官営工房の瓦匠が来日して制作した可能性が大きい。

骨肉相食む~家督をめぐる争い~

弘世が亡くなった後、義弘と満弘の兄弟間で家督を巡る争いが起こった。この後も大内家の家督交代に際しては、ほぼ毎回内訌が起こる。
先の鷲頭家と大内家との争いから始まり、内訌頻発の家であった。とはいえ、この時期、大なり小なり事情はどこも同じ。むしろ、激しい対立・抗争に打ち勝って家督を継いだ当主は真の実力者ともいえる。ゆえに強い家になっていくのだ!
それでも、内訌は家中を二分しての大掛かりなものとなるのが普通なので、それは一時的にであれ、勢力の分裂、弱体化にもつながった。
ゆえに、毎回毎回、相続争いを勝ち抜いた「新」当主は家中の動揺をおさめ、自らの正統性をアピールする必要に迫られた。

ポイント

毎度おなじみ家督相続紛争の流れ

ポイント

前当主死亡⇒複数(たいてい二人)の後継者が相続争い⇒家臣ら(配下国人なども含む)は日頃の付き合い、血縁関係(婚姻など)からいずれかの側につく⇒合戦に発展。⇒幕府を含む他勢力をも巻き込む(周辺諸国、中央勢力などもいずれかに加担する、支持することが多かった)⇒勝利した側が跡目を継ぐ⇒分裂した家中の取りまとめに苦心⇒政権安定化、勢力拡大

ポイント

以後もこの流れは幾度となく繰り返されるので、要注意。

この時期の関連人物

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