人物説明

厳島神主家

2022年3月26日

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厳島神主家とは?

厳島神社の神主家は、神社を創建した佐伯鞍職の一族が代々勤めていました。佐伯景弘の代に、平清盛と結んで、厳島神社の社殿を現在のような姿に再建。そこまではよかったものの、平家との関係浅からざるによって平家滅亡後は危機に。しかし、海に沈んだ三種の神器・宝剣を探索したりして協力。源頼朝が厳島神社(安芸国のではありませんが)を信仰していたお陰もありお咎めなしに。しかし、承久の乱で後鳥羽上皇方についたために、神主を交代させられてしまいます。

新しく神主となったのが藤原親実という人で、以来、大内氏によって滅ぼされるまで藤原姓神主家が続きました。

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厳島神主家については当然、神社やお隣広島県の郷土史などに詳しいよね。庭園との関係で言えば、神主家の相続をめぐる争いを端緒に長いこと合戦が続いたよ。この辺り、周辺諸家の利害関係が複雑に絡み合い、わけわかんないことになるケド、『実録』に載っていたそのものズバリは以下のお二人で、究極これだけでいいと思うの。

友田興藤 

もとは佐伯氏、掃部助となる。安芸国佐西郡桜尾城主。後友田村に住み、友田と称した。上野介となる。

永正四年、大内義興が将軍・足利義尹を奉じて東上するのに隨行した。この時、厳島神主・四郎興親、同郡の小方加賀守もこれに従って東上したが、四郎興親がその年十二月に病死して神主の家が断絶した。そこで興藤及び小方加賀守が神主職に補せらる事を競望した。義興は帰国して、「相競う物は中より取る」と云う諺があるとして自ら神領を支配し、各城に城番を置き彼等二人に神主職を与えなかった。興藤は大いにこれを憤った。
 ※ミル注――厳島神主の病没年は、同じ『実録』の「世家・義興」では永正五年となっている。史料によって誤差がある項目らしい。永正四年に出発し、五年に到着しているので、将軍を奉じて上洛云々は四年でも五年でも正しい気がするが、亡くなった年は一つしかないだろう。ここではそのまま四年としておく。

大永三年閏四月十一日、興藤は佐東郡銀山城主・武田光和等に救援を求め、桜尾城番・大藤加賀守、己斐城番・内藤孫六、石道本城城番・杉甲斐守を追い払い、甲斐守を廿日市後小路で殺した。興藤の被官某 (ハタシ吉左衛門尉とある) はこのときに死んだ。 この日、 興藤は桜尾に入城し自ら厳島神主となった。

八月、陶興房が大野の門山に陣をはる。

八月五日、友田で合戦。

八月十八日、弘中越後守が警固船の将として来て厳島を取る。厳島及び廿日市の友田方番兵は逃亡した。

十月三日、厳島を攻撃し、敗北。

十一月、佐東兵が石道城を攻撃した。城主・木幡興行は防ぐことができず、和睦を願い出た。興行の親族八人に切腹させ、興行は城を出て、三宅の円明寺に入った。この日、弘中越後守が来て五日市を焼く。五日にもまた来て五日市を焼いた。その軍が撤退するのを攻撃し、野間刑部大輔等二十余人を斬った。

四年五月六日、陶興房が大野城を攻める。

五月十二日、興藤は武田光和と合流して、女滝に軍を出した。大野城主・弾正少弼は陶方に降って城を焼き、撤退する與藤と光和を陶兵が追撃して、七八十人が戦死した。

六月、義興父子が大挙して厳島に出陣した。

七月三日、陶興房等が来て桜尾を囲む。

七月廿四日、陶兵が二墩に切り込んで攻撃する。野坂藤三、糸賀中務丞、同平左衛門尉、福田治部丞、三井右衛門尉等が力をつくして戦い、陶兵・勝屋甚兵衛尉等十余人を斃した。周防兵は車櫓を造り、北下りに押寄せて攻撃してきた。城内は笛太鼓で囃しながら防御したが、力尽き、吉見三河守頼興をたよって和睦を願い出た。

十月十日、嫡男・藤太郎を厳島に渡し、義興に拝謁させる。

享禄元年七月、義興は病に罹り山口に還った。陶興房は藤太郎をまた嚴島に渡らせるよう言い聞かせた。藤太郎は病死していたので、廿日、藤太郎の弟・広就を派遣し義興に拝謁させた。

十二月、義興が薨じ、義隆が跡を嗣いだ。興房はこのことを知らせ、広就に山口に下向するよう諭す。廿三日、広就を派遣し、廿八日に帰還した。

天文九年九月以降、厳島の鹿が多く死んだ。 社官等がこれを占うと、神主に異常事態が起るとのことだった。

十月、厳島の外宮を修築した。

十一月十六日、上棟式を行うに当り、壇上の東西に立てた東方の弓が理由もなく折れた。桜尾の不吉の兆しとされた。この日、興藤が参詣しようとすると、大田兵と己斐兵が前後を争い、あやうく鋒刀を交えるところだったので、社参をとりやめた。

十年正月、興藤はまた叛き、野島、呉島、因島に援兵を求めた。

十二日、野島、呉島、因島三家の警固船が来た。周防兵が厳島に参詣するのを攻撃し、 政所五日市宍戸の代官・仲村石見守がこれを追いはらった。周防兵はかろうじて逃れた。

十五日、周防警固船が来て厳島を攻撃した。三家の警固船は大鳥居沖で迎え撃ったが、敗走した。友田方の在島兵は廿日市に退き、周防兵が厳島を取った。

十九日、周防兵は藤懸七尾をうかがった。これを襲撃し、内藤正時等を斬った。

三月廿三日、義隆が来て七尾に陣を置き、桜尾を囲んだ。

四月五日夜半、城内の兵は皆、逃亡した。興藤は城を焼き、割腹して死んだ。翌日、その死体が焼けただれて、髪の毛が縮んでいるのを見て右田右京亮、神代左馬助がこれを抜いた。見る者は二人の行いを頗る怪んだという。

洞雲寺に葬られた(墓がある。五輪塔で興藤と刻まれている)。法名:東光寺玉叟長琳(洞雲寺過去帳には四月六日とある)。

雅な神官

なお、興藤は幾度となく連歌会を興行していた文芸の人でもある。

永正十五年三月五日、京都、肖柏の発句で何人百韻を張行、七句詠
永正十五年三月十八日、何船百韻、七句詠
永正十五年年五月十四日、京都、何人百領興行
(米原正義先生『戦国武士と文芸の研究』)

友田広就

幼名:四郎、興藤の次男である。兄・藤太郎は病死した。

享禄元年七月、義興に拝謁するため厳島に渡るにあたり、 掃部頭広就と改名した。

桜尾が陥落した後、大田兵栗栖某を従えて、五日市城にいきついた。城主・宍戸彌七郎が城の上から縄を下ろし、これを取って城に入らせた。栗栖は大田に還った。翌日、周防兵が来て五日市城を囲んだ。

八日、彌七郎広就を自殺させた。広就は弓が強かった。そこで三本の矢を放ち、その弓を折って自殺した。

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当然のことながら、厳島神主さんはこの二人だけではないので、この項目はまだまだ続きます……。

参照箇所:近藤清石先生『大内家実録』巻第二十「附庸」より
参考文献:米原正義先生『戦国武士と文芸の研究』

関連記事:洞雲寺(友田興藤の墓があります)

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