雑録

大内家先祖伝説制作秘話

2020年9月20日

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大内氏の先祖伝説とは?

大内氏は防長に煌めく名門一族でしたが、他家の「家譜」のように、先祖が天皇家や摂関家などではありません。推古天皇の時代に、聖徳太子に会うために遙々朝鮮半島の百済国から来朝した百済国王の王子・琳聖太子がその始祖です。このことは、のちに『大内氏多々良譜牒』という家譜にまとめられ、氏寺興隆寺の扁額に収められました。

外つ国の王子が始祖であるという高貴な血統、仏教に篤く帰依していた聖徳太子との面会を強く望んでいたということ、太子来朝に先立ち太子を守護するために北辰が降臨し、それが氏神・妙見さまとなったことなどが語り継がれ、一門の誇りとなっていたのです。

このことは大内氏が中世、弘世代くらいから中央政権に関わるような大勢力となっていくに従い、次第に全国的に知られるようになっていきます。滅亡後に作られた数々の創作などにも、琳聖の名は見られ、後世の人々にも深く信じられていたと思われます。

ところが、科学技術が進歩する現代に至ると、歴史学も発展し研究が進みました。すると、どうやら琳聖なる人物は実在しなかったようである、といわれるようになりました。そして、先祖伝説そのものが、大内氏による「創作」とする考え方まで現われます。果たして、真偽の程はいかがなものなのでしょうか?

先祖伝説の「中身」

まとめると、大内氏の「先祖伝説」というのは、だいたい以下のような内容です。

一、始祖は百済の聖明王の第三皇子・琳聖太子である

一、琳聖は仏教の信仰篤い人だった。「生き仏」とされる日本の聖徳太子の噂を聞き、ぜひとも会いたいと強く望み、願いを叶えるために来朝した(推古天皇十九年、611年)

一、太子は聖徳太子との面会を果たし、大内県に領地をもらって日本に定住した

一、太子の子孫・正恒の時、多々良という姓(せい)を賜った

一、琳聖が来朝する前、「異国の高貴な王子がやって来るから、それを守護するのだ」と、現在の下松の辺りに北辰が降臨した(琳聖来朝の二年前)。人々は、社を造ってその神(北辰尊星大菩薩)を丁重にお祀りした

一、異国の王子来朝の「お告げ」は本当であり、琳聖をお迎えすることになった。この神がかりな出来事と、自らの来朝との符合に感激した琳聖は、北辰を「妙見大菩薩」として大切に敬った

一、琳聖は氏寺・興隆寺を創建し、やがて子孫の代になると、氏神・妙見も氏寺内に勧請された

これらの「先祖伝説」については、通史のところでも説明していますので、ここでは詳細は割愛します。⇒ 関連記事:大内氏の起源

先祖伝説は「作られたモノ」!?

後世に脚色された痕跡がある

巻頭でお話した通り、大内氏の先祖伝説は「作られたモノ」であり、琳聖太子なる人物は存在しなかった、というのが、現在の最新研究成果となっています。これは歴代当主はじめ、後世に書かれた軍記物や読み本に胸躍らせた近世の人々、星降る松と外つ国の王子様伝説に酔いしれる現代の我々からしたらかなりショックです。

では、本当にこれらの伝説は「作られたモノ=インチキ」だったのでしょうか? 研究者の先生方は、そこまで非情に我々の夢を打ち砕いてはおられません。単に、琳聖という人物の存在を史料によって証明することができないことと、歴代当主たちがこれらの「伝説」をもっともらしくするためにあれこれの「手を加えた」ことがあきらかであることから、「脚色されたモノ」であり、「完全なる史実」とは認められない、と仰っておられるのです。

そもそも「伝説」なわけですから、最初から「事実(史実)」ではなく、「言い伝え」の範疇です。『古事記』や『日本書紀』に古代史の浪漫をかきたてられつつ、まさか本当に八岐大蛇などという化け物が実在したとは誰も信じないのと似たようなものですね。さりとて、『古事記』や『日本書紀』が多分に伝説的要素を含んでいるからといって、まったく存在意義がないものと考える人は(研究者の方々も含めて)おられません。

史料がないので事実とは言えない、よって信じられない捏造品である、となったら、文字がなかった時代の古代史などそのほとんどが、何ひとつわからない謎の時代となってしまいます。「倭王武」以前の大君はどれも怪しいとなったら、『古事記』や『日本書紀』の愛読者は、皆さんショックで倒れてしまわれますよ。

ただし、大内氏の「先祖伝説」の場合、何が問題になっているかというと、歴代当主が「手を加えた」らしきことについては、史料も残っており証明できる点です。史料がないから……と言い始めれば、古代史の時代については、どの氏族も曖昧です。ですが、室町時代くらいになるとあれやこれやの史料が残っていますからね。そんな時代に、当主たちが先祖伝説をいじくっている。その痕跡が明白なのです。ゆえに、「捏造」にはあたらないけれども、「脚色を加えた」くらいは言われても仕方ない感じです。

なにゆえに「脚色された」のか

歴代当主たちが「先祖伝説」に手を加え、「脚色」したらしき痕跡があるらしきことはわかりました。では、なにゆえに、手を加え、脚色などしなくてはならなかったのでしょうか? その辺の事情も知りたくなります。

琳聖は後世に作られた人物だとするご意見は、大内氏が中国地方の一大勢力となるに及び、由緒正しき一族としての由来を証明する必要性に迫られたという事情から来ているようです。幕閣の中枢を占める将軍家一門衆の連中などからしたら、自らは由緒正しき清和源氏の末裔。けど、「大内」ってのは、いったいどこから来た何者の子孫なんだ? と軽蔑する向きもあったでしょう(最終的に、その軽蔑してた相手の力を借りねば京都の治安を守り切れないほど落ちぶれますが)。

幕閣などと付き合う必要もない弱小勢力ならどうでもいいことも、それらの人々と行き来し、菩提寺の勅願寺化などまで行ないたいと考えるほど繁栄したら、よくわからないけど先祖は渡来系で百済の王子っぽいです、では話になりません。そこで、歴代当主たちは先祖についての伝説を目に見えるきちんとしたかたちでつくる必要性に迫られます。それまでは伝承にすぎなかった先祖代々の言い伝えを説得力のあるものにしなくてはならなくなったのです。

○○天皇の子孫という方々は羨ましいですよね。大職冠の末裔もそうですが。でも、中にはニセモノや、こじつけの人、じつは多かったりするかも知れないと思います。彼らもきっと、必要に迫られたんだろうなぁ。いわゆる「成り上がり者」みたいな方々、大慌てででっち上げたりしてたんだろうと想像します。実力があったからこそ、成り上がって表舞台に立てたのですから、出自がどこの馬の骨かわからない、でもかまわないと思うのですが。中世はまだまだ、イマドキのような実力社会には遙かに遠い時代ですからね……。

大内氏に限らず、ほかの一族とて出自についてはあれこれの「工作」をしているに違いないと思います。大貴族でもない限り、後から力をつけた武士階級の人々には延々と続く完璧な家譜など完備されていなかったとしても何ら不思議はないでしょう。家柄・身分なんぞより、実力で勝ち取った地位です。ですけど、遡ると清和源氏とか、桓武平氏とか、そういう方々が多いですよね。となると、いっとう最初の ○○ 天皇から系図が繋がっているわけなので、始祖については明瞭です。それより先は皇室の祖先神話に辿り着くので、ほったらかしといても OK という感じ。

ですけど、自らの出自や先祖を輝かしいものとするために、意図的にありもしない貴種伝説を盛り込んだり、不都合な部分を削除するような書き換えがなされることはどこにでも普通にある話です。もしかしたら、○○ 天皇とは縁もゆかりもない人々が、平然とその子孫だということになっていないとも限りません。むろん、本当に ○○ 天皇の末裔である可能性も捨てきれません。要するに「よくわからない」ってことです。怪しいもんです、本当に。

なので、何も大内氏の歴代当主たちが狡賢いというわけではないので、誤解のないように(むしろ、そこまではやっていないのだから、奥ゆかしいとすら思えます)。というようなわけで、百済から流れ着いた王族が多々良氏の始祖であることそのものが全否定されているわけではないことには注意なさってくださいませ。

けれども、遡れば先祖が外つ国の王子となると、記紀神話をめくっても出てくるはずはありません。むしろ、王子の出身地に行き、そこの神話を紐解く必要があります。スゴいのは歴代当主たち、本当に朝鮮半島に使いを遣って調査してもらったりしてます。

先祖伝説の形成と発展

※朝鮮の王朝もあれこれ変っていてメンドーなので、高麗、李氏朝鮮などとせずに、全部朝鮮王朝、朝鮮国王などととしております。

義弘と朝鮮国王

最初に朝鮮半島に接近したのは、二十五代・義弘さんの時でした。当時朝鮮は「倭寇」と呼ばれる海賊のような人々に悩まされており、しばしば日本に取り締まりを求めてきました。「倭寇」=日本の悪い人たちという考え方も、現在は古いみたいで、その構成要員も様々だったりするようなご研究がありますが、「倭」ってついてますし、参考書でもそれ以上の追求はなく、単に「倭寇」なので、昔ながらの考え方でいきましょう。

朝鮮半島のみならず、倭寇の被害は大陸にも及んでいましたので、「取り締まって欲しい」という願いは周辺の人々全員の要望でもありました。ところが、当時の日本は南北朝の動乱期にあたっており、使節団を派遣して外交関係を結ぼうとしても、九州を抑えていた南朝勢力が交渉相手として出てきたりして、なんだかややこしいことになりました。やがて、義弘さんも大活躍した武家方の九州平定で、ようやく朝鮮の人たちは倭寇取り締まりの要望を伝えることが叶うようになりました。

この頃、九州のことは九州探題が請負っておりましたので、しばしの期間、朝鮮半島との通交は探題に独占されてしまい、大内氏も含め周辺諸国の守護たちは自由に朝鮮半島と通交できなかったりしましたが、そこらの外交だか、通商だか、南北朝時代だかで語られるべき話はひとまず無視します。

最初は探題の命を受けて、のちには自ら進んで、義弘さんは倭寇の鎮圧に大いに尽力し、朝鮮の人々を助けてあげました。朝鮮の人たちはたいそう喜び、大内氏との友好関係を貴重なものと考えます。貿易等においてもあれこれと便宜をはかってくれました。

朝鮮半島と通交していたのは何も大内氏だけではなかったのですが、朝鮮側の大内氏に対する特別待遇は、王朝が交替しても延々と続きます。これにはワケがありました。第一には、他の周辺諸国と比べて大内氏の勢力が圧倒的に強力でしたから、倭寇の取り締まりにしても、ほかの諸国に頼んでも心許ないか、助けてくれないところを快く応じてくれたこと。そして、第二には、大内氏の先祖が朝鮮半島から出ている、つまり、お互いに同族であったという親近感です。

一番目はいいとして、二番目の同族意識についてですが。もしも、朝鮮側からなにがしかの史料を提示されて、あなた方の先祖は我々の半島から日本へ渡った琳聖という王子なのですよ。三国分立していた時代で、かの王子は百済国の人でした、云々。というような流れだったとしたら、夢のようなお話なんですが……。どうやら、ここも大内氏側からの「自己申告」でした。おかげでお互いに親しみが湧き、さらに友好的になった、というのならば麗しいお話です。ですけど、朝鮮との通商は「儲かります」。それについては、大内氏の繁栄ぶりからわかろうというものなので(もちろん、単に貿易だけで繁栄したわけじゃないですよ。でも、繁栄するにはやはり資本も必要と思います)、同族だということにして、さらに親しくなって利益を倍増させよう、と目論んだのだと考えられなくもありません。

それはそれで、特典が増えて利益が倍増したりするのならば、上手い手を使っているなぁ……と感心する話にしかなりませんが。ただ、あまりに星降る伝説に入れ上げている方の場合、ちょい幻滅してしまう恐れはありますね(でもこの点を強調している先生方のご説は、今のところお見かけしていないような気がしています。むしろ、こんなことを口にしようものなら、御薗生翁甫先生などにぶん殴られかねません……でも、お怒りになっておられるということは、似たような『邪推』をした人がいるってことだよね?)。理由はどうあれ、ある日ある回(応永六年、1399)の派遣使節が、義弘から朝鮮国王への「三つのお願い」を伝えます。

具体的には以下の三つのものが欲しい、という「お願い」でした。

一、彼の一族が、百済王の末裔であることを知らしめる証となるもの
一、先祖の地(元百済の地)の領地
一、大蔵経

朝鮮国王はどこまでも大内氏贔屓だったみたいで、領地すら与えようとしたようですが、家臣たちの猛反対にあって叶いませんでした。何のかんの言っても、大内氏は外国の勢力です。たとえ、「自己申告」の通りだったとしても、今は外国籍となっている人物に朝鮮の国土を渡すなどもってのほかです。領地をもらった後、何をするつもりなのかも不明ですし、危険すぎます。というのが官僚たちの意見。筋が通っていますよね。確かにかなりずうずうしい「お願い」です。

大内氏を愛する思いが強すぎる研究者の先生は、遠い先祖が住んでいたまだ見ぬ故郷の地、そこに領地が欲しいと願うのは当然の感情だ云々と仰っておられましたけど。個人的にそうは思えませんでした。だって、土地はタダではないのですから、かつて先祖の実家がそこにあったから土地ちょうだい、とかねだってみたところで普通はもらえませんよ。現代ならば、お金さえあれば土地は買えますが。当時は、貴族・官僚ならば役職につけばその身分相応の土地がもらえ、武家ならば武働きに応じて恩賞としてもらえるようなものです。あるいは、倭寇の討伐で力を貸してあげたのだから、一種の恩賞みたいなかたちで要求しても当然と思ったのかな? 

仮に、本当に領地がもらえたとして、何をするつもりだったのでしょうか? 管理するための家臣を駐在させるにしても、海外となるので大変ですし、地元の人を雇って管理してもらうとしても、遠い海外まで定期的に様子を見に行かねばなりません。ほったらかしではどうなっているかまるでわからなくなってしまいます。国内の荘園などでも居住地から離れれば離れるほど管理がたいへんなのですから、それが海外とかなれば……。今となってはご本人に確かめる術はないですが、謎というか無理すぎる要求ですね(普通に考えておいそれとくれるとも思えません)。

それでも、朝鮮の方たちは、土地を与える以外の要求には応えてくれようとしたみたいです。残念ながら、当時の王朝の人たちからも百済の時代はあまりにも古い。よく分らないから、百済建国神話から始祖・温祚王を引っ張り出してきて、その子孫だと説明することにしました。けれども、義弘が応永の乱で亡くなってしまったため、このプロジェクトは中途半端でお終いになってしまいました。

いっぽう、この頃、周防国では朝鮮式の建築物が建てられていたことが、発掘調査で出てきた当時の屋根瓦なんかから分っています。これも、「我々のルーツは朝鮮半島ですー」の主張をアピールするものだとされています。国内でも朝鮮式建物を作り、外交でも朝鮮にルーツがあることの証明書を求める、徹底して朝鮮との繋がりを証明しようとしていたように思われます。何となく意図的なものを感じますが、気のせいでしょうか?

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古代史とかかじってみたら、昔は国中皆で朝鮮の文化を取り入れていたことが分った。渡来人の子孫だって大勢いる。最初はとんでもなくレアだと誤解していたけど、なにも特別なことじゃない気もするね……。

具体化と神聖化

先祖伝説を出来る限り具体的にするために、盛見さんの代には琳聖太子と聖徳太子がドッキングします。聖徳太子の伝説は古代からずっとあり、中世においても人々に深く信仰されていたから、それと関連付けることで始祖・琳聖太子もさらに神聖化されます。

ちょっと待って! 琳聖と聖徳太子がドッキングって、敢えてひっつけなくとも、そもそも琳聖太子は聖徳太子に面会するためにわざわざ百済からやって来たのではないの? と疑問に思った方は、すでに大内氏歴代当主の思惑にどっぷりと浸かってしまっておられます。

じつは現物を見たことがないのですけど、聖徳太子って昔、一万円札になっていたそうです。つまりは実在した人物ってことで間違いないですよね? ところが、昨今では「実在しない」とまでいわれており、歴史教科書から消えるなんて囁かれていたこともありました。教科書は見てないのでわかりませんが、参考書にはちゃんと載っておりますので、実在しなかった説は消えてしまったのでしょうかね? あまり関心がないので、適当に濁させていただきます。ただ、聖徳太子っていったほうが、日本史詳しくない人間でも分りますが、現在は「厩戸皇子の時代」などという、なんて読むんだろ?(実際にはきちんとふりがながありますので、わかります)っていうような書かれ方と併用されております。

もしも、聖徳太子が架空の人物だったとしたら、架空の人物と面会した琳聖も実在しない人物である可能性が途端に肥大化して、さすがに先祖伝説に憧れるといってももはや歴代当主さま方を庇いきれません。

さて、横路に逸れてしまいましたが、現代はどうあれ、中世、大内盛見さんが当主を務めておられた頃には、聖徳太子信仰はまだまだとても盛んでした。架空の人物だなどと言い出すような人はおられなかったでしょう。ゆえに、琳聖太子と聖徳太子との関連性を明らかにすることは、始祖・琳聖太子を神聖化することにも繋がったのです。

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車塚古墳を覚えてるかな? あれは琳聖太子ゆかりのものだよ。まさにそれらしい「古墳」だけど、盛見さんが「そういうことにしてしまった」ものです。さて、どんなゆかりの場所だったんでしょうか。

盛見さんはどうやって琳聖太子と聖徳太子とをドッキングさせたのでしょうか? これが、じつにさりげなく行なわれています。防府の妙見社、つまり現在の天御中主神のところにある「車塚古墳」。これは、元々盛見さんが造った「多々良宮」というお社でした。そこにはなんと、琳聖太子、氏神・妙見大菩薩と並んで、聖徳太子までお祀りされていたのです。⇒ 関連記事:車塚妙見社

盛見さんと言えば、仏教に篤く帰依していたお方として著名ですが、氏寺・興隆寺において興隆寺本堂供養会(応永十一年二月十九日)、唐本一切経供養会(応永三十四年四月九日)などを盛大に執り行ったことが知られています。その際、興隆寺を建立したのは、始祖・琳聖太子である、ということが明らかにされました。それが、「琳聖」という名前が史料に現われた最初だといわれています。⇒ 関連記事:大内盛見

むろん、しつこくなりますが、だからといって大内氏の先祖伝説がこの時点ででっち上げられたというのではありません(そうである可能性もありますが)。恐らくは、それまでは伝承の域を出なかった先祖伝説を、はっきりと陽の当たるところに引っ張り出してきた、そんな感じかと思います。先祖は百済の王子と伝わっている、けれども、名前までは長い年月の中で忘れられてしまった、だけど名無しの王子というのもカッコ悪いので、きちんと呼び名を決めよう、そういうことかも知れません。あるいは、すでに「琳聖」だとわかっていたけれども、それまでは文字史料の中には出て来なかった(もしくは史料が失われてしまって、我々の目には届かない状態にある)、単純にそれだけかも知れません。

ですが、これらもやはり、どことなく作為的なものが感じられなくもないですね。むしろ、名無しの王子のままのほうがよかったのかも知れません。だって、興隆寺を建立したのが始祖の異国の王子だった、などという重要事項が、それまではどこでも語られていなかったのに、いきなり盛見さんの代に出現したわけで。さらに、なぞの社(車塚古墳)を造るとかね。こういうことをするから、研究者の先生方に怪しまれてしまうのですよ。まさか、数百年後に、あれこれ議論されるだろうなんて、当時のご本人にはまるで想像できなかったろうけど。

『琳聖太子入日本之記』

嘉吉の乱で横死した持世さんをとばして、つぎの築山大明神さま(教弘公)の代。もうこの辺りまでくると、大内氏の繁栄ぶりは、落ちぶれた公家はもちろんのこと、幕閣たちをも凌駕するほどでした。ゆえに、管領としてデカい顔をしていた細川京兆家と険悪になったりとかします。

ここまで繁栄していた理由は、歴代当主さまたちが優秀すぎて、国が富み栄えていたからですが、その富はどこから来るのかといえば、海外貿易からというのが一番でしょう。大内氏とゆかり深い朝鮮王朝との通商も、ますます盛んとなっていました。でもって、大内は特別待遇、ってトコもそれまで通りです。すると、朝鮮貿易で優遇されている大内氏になりすます「ニセモノ」が大量に出現するという許しがたい事件が起りました。

「ふざけるな。我々だけの特権のはず」と大内氏は朝鮮側にも取り締まりを求めました。貿易は相手国あってのことですから、ニセモノが横行するのは、朝鮮側のチェックがいい加減だった、ということになりますからね。だって、ニセモノをそうとは見抜けずに交渉進めちゃってたわけですので。そこで、朝鮮は大内氏に対して「通信符」なるものを発行することにしました。今後は、これを持っていない「大内氏を騙るニセモノ」は排除する、ってことです。

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要するに、それまではかなーりいい加減な手続き方法だったんだね。だから、これからはもっとキチンと確認をしようと。そのための身分証明書みたいなモノが「通信符」という割り符です。

こんな具合で、大内氏と朝鮮王朝との外交はますます盛ん、という感じだったのですが、ある日ある回の派遣使節が、築山大明神さまのお言葉を国王に伝えます。

それはおよそつぎのような内容でした。

一、我々の始祖・琳聖太子は百済国から、聖徳太子に会うために遙々海を越えてやって来た。その頃、聖徳太子は、仏教を広めることを好ましくないと考える大連一派と対立していた。琳聖は聖徳太子を助けて大連一派を排除するために尽力した云々(その後大内県と多々良姓をもらってなどは重複するので避けますが、琳聖が『大連一派』をやっつけるために聖徳太子とともに戦ったというような真新しい内容が付け加えられたのは、築山大明神さまが最初とされています。これは先に述べた盛見さんが多々良宮を造り、そこに聖徳太子と琳聖をともに祀ったような背景があったゆえに出てきたもののようです)。

一、我々の「先祖伝説」は以上のようなものだが、残念なことには代々「口頭」で語り継がれられてきたゆえ、きちんと文字で書かれたかたちでそれを証明するものがない。よって、「史書」となる『琳聖太子入日本之記』が欲しい。

『琳聖太子入日本之記』って……。琳聖が日本にやってきたことを朝鮮側から「史書」として文書化して欲しい、ってことだろうけど。タイトルまで用意した上でお願いしているというところがスゴいです。しかし、朝鮮にある百済王朝の系図によれば、百済の聖明王には二人しか王子がおらず、その中には大内氏いうところの「琳聖」なる名前はないのです。朝鮮側からしても、そんな人いたのだろうか? という話になります。実在しない人物についての出来事なんて書けるはずがありませんよね。ところが……。

なんと、朝鮮国王は本当に『琳聖太子入日本之記』を下賜してくれたのです。えぇーー!? いもしない人物の伝記(?)なんて、書けるはずもないのに……と、誰しもが思いますよね。

先に、義弘さんが「百済王の末裔であることを知らしめる証」が欲しい、とお願いした際。当時の朝鮮国王は、だったら百済の始祖・温祚王の子孫ということにしておこうかと考えました。義弘さんが亡くなったため、それが「証」として整理され、大内氏側に提出されることはありませんでしたが。朝鮮には、その時の記録がまだ残されていたのです。築山大明神さま時代の朝鮮国王は、それを引っ張り出してきて、改めて文字に起こしました。今回はタイトルが『琳聖太子入日本之記』と決まっていますし、大内氏側からその時点までに「口頭で」伝えられてきたという伝説の詳細も聞いていたので、恐らくはそれらについても書き込まれたでしょう。

しかし、そもそも「いもしない」王子(系図上)の子孫であることを証明するなどというできもしないことを、なにゆえに引き受け、それこそ「でっちあげた」のか。それは、朝鮮側が大内氏との関係を大切に思い、その要望には出来る限り応えてあげようと思っていたからにほかなりません。義弘さんの時に、すでに原型が準備されていたということは、その代の国王がとりわけ熱心だったってこともあるでしょうが(何せ、土地まで渡そうとしていたくらいの大内氏贔屓)。

けれども、ココで大事なのは、百済建国伝説に絡ませておけば外れはないだろう、というちょいいい加減な対応になっている点ですね。これは、要望に対する対応がいい加減という意味ではありません。百済の王子の末裔と言っているんだから、百済建国に結びつけてしまえばいいのだ、という考え方が手抜きみたいに見えるという意味です。ですが、実際にはそのような結論に達するまで、朝鮮国王も苦労したのです。あるいは、そこら中の古文書をひっくり返して、どこかに義弘を満足させることができる「証」はないかと必死になっていたかもしれません。でも、見付けられなかったんです。

「証」は見付けられなかったけれど、義弘の言い分は正しいこととして、百済建国期にまで遡り、その歴史と結びつけた。朝鮮側にも残念ながら、文字史料としては大内氏の先祖にあたる人物の存在を確定できなかったわけですが、それを以て、日本に渡った百済の王子がいなかったことの証明にはならないことは、琳聖が実在したか否かの問題とまったく同じことです。だとすれば、百済建国から滅亡までの期間に、誰か日本に渡って大内氏の始祖となった王子がいたかもしれない。ならば、えいやっと建国から語り始めておけばいいではないか、という考え方、じつはとても理にかなっているようにも思えますね。

こうして、「口頭」で伝えられてきただけだった「先祖伝説」は、ここへ来てようやく「文書化」され、目に見えるかたちのあるものとなったのです。それを記してくれたのは、琳聖の故郷・朝鮮の国王でした。何やら、ここへ来て、大内氏の「先祖伝説」は、大内氏と朝鮮国王との共同製作的な色合いが濃くなってきた感じがしますね。

そして伝説は真実となる

ここまできて、大内氏の「先祖伝説」はかなりくっきりとしてきました。

一、琳聖という人物が始祖である
一、琳聖は百済の王族であり、つまりは大内家も百済の王族の子孫である
一、以上の「事実」は、『琳聖太子入日本之記』という「史書」によって証明されている(=朝鮮の国王も『文書によって』認めている)

もはや完璧ですよね。

まだ足りないことがあるとすれば、これらの「事実」を一人でも多くの人に宣伝し、世に知らしめることです。分国内だけで自己満足していても意味がないですからね。

応仁の乱と「伝説」の修正

築山大明神さまの御子・法泉寺さま(政弘公)はそれでもなお、伝説を完成させるために奔走します。応仁の乱で大内氏が上洛したことをきっかけに、彼らの「先祖神話」は都の人たちの間にも広がりました。何せ、遠く周防国からやって来て敗戦濃厚だった西軍を一挙に形勢逆転するほど勢いづけたお方です。都の人々は、その勇姿に惚れ惚れし、いったい大内氏というのは、何者なんだろうか。なにゆえにここまで強いんだろうか、などなどあれこれ考えたはずです。そんな状況下でさりげなく「先祖伝説」を宣伝すれば、都の人々のそれらの伝説に対する印象も強烈なものとなりますよね(どの程度受容されたかは不明ですが)。

むろん、これ以前にも、歴代当主さまたちは上洛しており、中にはかなりの期間在京されていた方もおられました。それゆえに、まったく知られていない一族だったなんてことはもちろんないです。ですけど、幕府の偉い手がどんな人たちなのかなど、一般庶民にはあまり関係のないことですからね。たまに噂に上ることがあったとしても、「先祖伝説」までもが受容されるのはそう簡単なことではないと思います。そもそも、「伝説」そのものが、代を重ねるごとに具体化・神聖化されて完成度を高めていったことは見て来たとおりです。初期の頃はせいぜい、よくわからないけど、渡来系の子孫らしい、くらいのことしか発信できない状態だったわけです。

それが、長期に渡る未曾有の大乱、敵も味方もびっくりな大活躍と、人々の関心を惹き付ける要素満載。そこへもってきて、先祖伝説もしっかりしたものが出来上がりかけていた。となれば、一挙に全国区で有名になってしまいますね。

いっぽうで、法泉寺さまは在京している機会に綿密な調査を行い、「先祖伝説」の中にいくつかの「不具合」があることを発見します。

『新撰姓氏録』という古代氏族一覧表のような書物を調べたところ、「多々良」という渡来系氏族は百済ではなく、任那系の子孫だということが分ります。くわえて、百済の王族は「余」という姓だったのに、義弘期に朝鮮王が「決めて」くれたのは「高」という姓になっていました。

大内氏と朝鮮王と両方とで、百済王の姓を間違えていたことに、今の今まで気がつかなかったというのも妙な話です。けれども、『新撰姓氏録』も法泉寺さまが京で貴族を仲立ちに書写して読み解いたというのですから、だれでもどこでも調査できるようなシロモノではなかったのでしょう。少なくとも、大内氏側に否はありません。朝鮮国王も三国時代のことなんてあまりに古すぎて……という反応でしたから、古すぎてはっきりしなかったのか、実はテキトーにしか調べなかったのかも知れません。

逆に考えると、誰にもバレっこない古すぎる話なのだから、別にそこまで丁寧に調べなくてもいいのに、とも思えます。本人たちが先祖の伝説を語り、始祖が外つ国の王子なので、「証明書」は外国の王朝に発行してもらった。そこまでやっているのに、疑う人もいないでしょうし、どこかに齟齬がないか調べる暇人もいないはず。ですけど、法泉寺さまは完璧を求めるお人です。ご自身がそうであるように。

そこで、これまで作り上げられてきた「伝説」はいくらか軌道修正がなされます。まずは、朝鮮国王が「決めてくれた」高という姓、これを百済の王族の姓である「余」に変更します。いっぽうで、『新撰姓氏録』にあった任那系の子孫多々良氏と自分たちとを結びつけたくはなかったのでしょう。あくまで「百済王」の子孫ということにこだわり、任那系に修正することはしませんでした。

けれども、軌道修正する以上、新たな「証明書」が必要となります。お父上が朝鮮国王に書いてもらった『琳聖太子入日本之記』では、姓が間違っていました。これだと矛盾した「先祖伝説」となってしまいますので、書き直してもらわなければなりません。そこで、つづいてまたしても、朝鮮王朝との交渉となります。

「家譜」の完成

文明十八年(1486)は大内氏の歴史にとって、最も輝かしい忘れ得ぬ年となりました。氏寺・興隆寺が勅願寺化され、法泉寺さまのお父上・教弘公が築山大明神として神格化されたのです。

この年、法泉寺さまは「瑞夢」により、氏寺・興隆寺を勅願化して欲しい旨、朝廷に奏上します。すると、時の後土御門天皇は三条西実隆という法泉寺さまとも交流のあった公家を通じ、興隆寺の由来を尋ねさせました。そこで、法泉寺さまは興隆寺の縁起について書き記した「氷上山伝記」という文書を提出しました。書いたのはご本人ではないにせよ、きちんと内容を精査し自署しておられます。そこには、興隆寺はもちろんのこと、当寺院を氏寺とする大内氏についての由来が書かれていることから、別名「大内譜牒」とも呼ばれ、後々大内氏の由緒来歴の根本史料となるのです。

寺院は無事に勅願寺化され、天皇直筆の額を賜りました。この時、「氷上山伝記(大内譜牒)」は勅額に裏書されると同時に、原本は寺院にて大切に保存されました。残念ながら、いずれも現在には伝わっておらず、我々が「史料」として先生方が引用しているのを見ることができるのは、その「写し」です。

「氷上山伝記(大内譜牒)」の中身はいったいどんなものだったのでしょうか? じつはコレ、皆さんが大内氏の由来としてご存じのものズバリそれです。つまり、興隆寺勅願寺化の際に作られた「家譜」が、大内氏「先祖伝説」の完成形なのです。朝廷に提出され、天皇の叡覧にあずかることで、「伝説」は大内氏の正式な「家譜」として、「真実」となり、「歴史」となって現代にまで伝えられています。

では、お父上までにまとめられていた「先祖伝説」と法泉寺さまが完成させた「家譜」との間には、どのような相違点が見られるのでしょうか。何らかの「軌道修正」をしたということでしたが。

例によって、ある日あるときの使節団が、朝鮮に赴いた際、当主の言葉を伝えました。だいたいつぎのような感じです。

一、大内氏の始祖・琳聖太子は百済の聖明王の第三の皇子である
一、歴とした百済の王族の子孫であるから、「国史」が欲しい

百済の聖明王には二人の王子がいたことしか判明していなかったはずですが、はっきりと「第三皇子である」と主張したのです。二人しか分らないとはゆえ、それが一番目、二番目の王子、ということにはならないような気がしますが、普通は分っている(系図に載っている)範囲内で一番目、二番目……のようにしますので、だったら「三番目」ということにしてしまったのです。スゴいですね。もはや有無を言わせずって感があります。

そして「国史」。これは普通に考えて百済についての史書ということでしょう。日本国内には当然、『日本書紀』のような日本の歴史を記した史書しかありません。先祖が百済の王族ならば、それは百済国にあるはずです。とは言っても、百済はとっくに滅亡した王朝ですので、百済国の人が記した歴史書はもはや存在しないかも知れません。予想通り、百済人の手になる百済の史書は残されていませんでした(そもそも史書が存在したかも知りませんけど)。けれども、のちに、統一新羅王朝の人が書いたとされる『三国史記』という史書は伝えられていました。

朝鮮国王は、この『三国史記』から「高句麗百済建国神話」の部分を抜き出して書写し、「略記」として下賜してくれました。法泉寺さまはこの「略記」を根拠として「大内譜牒」を制作したのです。ゆえに、大内氏の家譜は高句麗の始祖・朱蒙から始まっています。なぜなら、百済は高句麗から分れ出て建国された国だからです。

しかしこれ、特に朱蒙の物語などほぼ完全に「神話」です。とても史実とは思えない内容です。ですけど、考えてみてください。歴史書とされる『日本書紀』とて、最初のほうはほとんど神話です。世界中のあらゆる民族にはそれぞれ、独自の建国神話があるといいます。非科学的なので、現代版からは削除します、なんてやっている国はないでしょう(むろん、『日本書紀』現代語訳などから削除されない、という意味で、教科書に『史実』として国産み神話が書かれることはないですが)。神話は立派な民族の誇りです。大内氏の場合は始祖が外つ国の王子ゆえ、日本の国産み神話とはまったく違う、朝鮮の神話から始まっているということです。

長かった「先祖伝説」編纂の旅は終わり、ついに「伝説」は完成しました。大内氏がもっとも輝いていた時代にそれは完成し、「伝説」は「家譜」に変りました。あああ、その完成した中身が知りたい! と思われた方、すでに、伝説の中身についてはご紹介ずみです。この記事のスタート地点が、まさにそこでした。

どこに出しても恥ずかしくない立派な「家譜」が完成したおかげで、それ以後の当主がさらにこれらに手を加える必要はありませんでした。しかし、義弘を皮切りに、盛見 ⇒(持世)⇒ 教弘 ⇒ 政弘と何代にも渡って受け継がれてようやく完成したこの家譜も、二代先には大内氏の滅亡とともに失われてしまいます。

歴代当主が賢明に家譜を作成したのが、自らの由来をはっきりとしたものにすること、であったとしたならば、せっかく完成したその家譜は残り二代の当主たちの役にしか立たなかったようです。けれども、その後もこの家譜をもとに、大内氏の始祖は百済の王子・琳聖であるという物語は後世の人々によって語り継がれていきました。現代に至ると、歴史学の発展によって、「家譜」はあれこれと調査され、史実ではないとか、脚色されているとか言われたりしています。それでも、研究者たちが必ず目を通さなければならない文字史料として、今もなお、たいへん貴重なものとされているのです(原本ではなく、写しですけどね)。

まとめ

  1. 大内氏には、始祖は百済の王族・琳聖太子である、太子は聖徳太子に会うため遙々百済から来朝した、太子の来朝前に下松に太子を守護する北辰が降臨した、という「先祖伝説」がある
  2. けれども、この「先祖伝説」は、歴代当主たちが手を加え、脚色した痕跡が見受けられるため、「真実」ではなく「作られたモノ」である、とする研究が主流
  3. そもそも、「琳聖」なる百済の王子は存在しなかった、とまで言われている
  4. 「琳聖」なる名前が史料に現われた最初は、大内盛見の興隆寺本堂供養会が最初で、氏寺・興隆寺の創健者であるともされた
  5. 盛見は防府に「多々良宮」という社を造り、琳聖、氏神・妙見とともに、聖徳太子をも祀った。当時盛んだった聖徳太子信仰と始祖・琳聖を結びつけ、神聖化をはかったらしい
  6. 盛見の子・教弘は、大内氏の祖先伝説が、口頭による伝承に過ぎぬ状態にあることを訴え、朝鮮国王に『琳聖太子入日本之記』で文書化して欲しいと頼んだ
  7. 朝鮮王朝に、先祖が百済の出身であることを最初に訴え、「その証」が欲しいと国王に頼んだ最初の人は教弘の伯父・義弘だった。その時の国王は、大内氏の先祖は百済を建国した温祚王である、と結論づけて義弘の要求に応えようとしたが、義弘が応永の乱で亡くなったため、うやむやなままとなっていた
  8. 教弘期の国王は、義弘のためにかつての王が記していた温祚王云々の話を再録・脚色の上、教弘の要求に応えた
  9. 教弘の子・政弘は、父の代までに整理されてきた「先祖伝説」にいくつかの誤りがあることに気付き、修正するとともに、朝鮮国王から『三国史記』から「高句麗百済建国神話」部分を抜き書きした「略記」をもらった
  10. 政弘は先代までに蓄積されてきたこと、自らが修正したことを整理し、さらに朝鮮国王からもらった「略記」の要素も取り入れて、「氷上山伝記(=「大内譜牒」)」を完成させる。これこそが、「先祖伝説」の集大成であり、我々が今日大内氏の由来だと信じている「家譜」である。
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ミル

考えてみたらさ、『古事記』や『日本書紀』とかも、あれこれ伝承とかを集めて「編纂」したものだよね。つまりは、大内氏歴代がやって来たことも、こうした「編纂事業」だと思うの。

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次郎

んじゃ、聞くけどさ、琳聖とかいう百済の王子って、本当にいたの? いなかったの?

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ミル

それって、天照大神は本当にいらっしゃるのか、って聞いてるくらい畏れ多いことだと思うんだけど、よく平然と質問できるね?

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於児丸

新介さま、無知な連中は放って置いて紅葉狩りに行きましょう。乗福寺の紅葉は見事ですね。

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新介

そうだね、行こう! ついでに始祖さまのお墓参りもできるね。

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法泉寺さま

……。

附・リライト前記事(抄)

この記事は元々、韓流ドラマ『朱蒙』の感想文みたいなものでした。全削除でいいのですが、ちょこっとだけ置いておきます。

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ミル

コグリョ、ペクチェ、シルラ……。

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新介

何のこと?

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ミル

高句麗、百済、新羅。琳聖様の子孫が分らなくてどうする? 韓ドラ見てる人なら皆、しっているよ。

ネイティブの発音と合致しているかどうかは別として、韓流ドラマの吹き替え版日本語では上記のように読まれている。朝鮮王朝時代を描いた時代劇が多数を占めるものの、三国時代を舞台にしたものもある。三国時代といえば、古代史の頃なので、ストーリーはほとんどファンタジーに近い。

中でも、とりわけ印象深くてお気に入りの作品が『朱蒙』。高句麗建国神話を元にした、実に 80 話を超える大作。

 国を建てるってすごいことだ
 中国大陸と陸続きだとこんなにもたいへん
 この朱蒙の子孫が大内家の先祖だ

……と、得ることがきわめて多い作品だった。

神話はあくまで神話なので、どこまで信じていいのかわからない。しかし、ドラマはとてもリアルなので、すべて本当だ、と思ってしまった。「歴史の分らない人間は司馬遼太郎作品を絶対に読んではならない」という禁忌をおかしたのとまったく同じ状態に。朝鮮半島の古代史を知らなかったので、ドラマが史実だと思ってしまったから。

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ミル

でも、それでいいんじゃないの?

朱蒙はヘモスという英雄の息子だったが、扶余国の王子として育てられる。やがて出生の秘密を知り、実父の遺志を継いで古朝鮮再興のために立ち上がる。途中様々な困難が立ちふさがるが、朱蒙は志を同じくする仲間たちとともに、高句麗を建国する。

建国後。政略結婚した王妃(元は相思相愛の恋人どうしだったが、ゆえあってそれぞれ別の人と結婚していた。両名とも再婚)の連れ子にあたる王子二名は、朱蒙大王の実子と相続争いが起ることを避け、新たな国を求めて旅立っていく。ほとんどラストにチラリなんだけど、この二人の王子のうち一人、弟のほうが百済を建国した「温祚」である。(※ドラマだと朱蒙は王子の実父ではないのだが、神話では実父とも)

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ミル

つまり、新介様のご先祖様です!

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新介

うわっ、そんな話、父上にも聞いたことなかったよ。

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ミル

お父上は「知っていた」はずです。新介様も当然しっているはずなんですが。教育係にきいていませんか?

※この記事は 20231008 にリライトされました。リライト前記事の一部が「附録」部分です。

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ミル@周防山口館

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